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2011 年 10 月 のアーカイブ

豊里講演会を振り返って

2011 年 10 月 24 日 コメント 6 件

昨年11月に出会って以来、数多くの交流を重ねてきたヤマギシ会と木の花ファミリー。去る9月29日、ヤマギシ会で最も多くの人が住む「豊里実顕地」で、「世界のしくみを知り、そこで暮らす心のあり方を見つめよう」と題するいさどんの講演会が行われました。

世界最大の農的コミューンとして50年の歴史を誇るヤマギシ会に、いさどんはこれまで多くの投げかけをしてきました。その集大成ともいえる今回の講演を終えて、一つの節目を迎えた今、いさどんにその思いを語ってもらいました。

出会う前、僕はヤマギシ会をもう少し凝り固まった人々の集団だと思っていた。ところが実際に出会ってみると、ヤマギシ会はそれまでの歩みを超えた、新たな世界を求めていた。自分たちだけが正しいと主張するような要素が全くないとは言えないが、これまでの歴史の中でさまざまな挫折を味わった結果として、新たな歩みを求める時に来ていた。

ヤマギシ会の中には、内部に矛盾を感じている人もいれば、相変わらず自らが正しいという思いにとらわれて外に意識を向けない人もいて、いろいろな思惑が混在している状態。

僕らは、ヤマギシ会を意識してこの生活を始めたわけではない。ただただ、世のため人のための道を歩んできた。そんな時、仏教の経典である法華経に僕らの生き方を見る時がある。ヤマギシ会の成り立ちにも同じ精神があり、それは僕らとの共通点でもある。ただ、ヤマギシ会と木の花との違いは、高い理念が掲げられていても、それを生活の中に定着させることを徹底していないところにある。木の花もまだまだ未熟ではあるが、生活の中にその理想を表していこうと日々実践を積み重ねている。そこのところに、ヤマギシ会の人々は注目すべきである。

しかし、木の花もヤマギシ会も、本来の目的は同じところにある。そしてこれからの時代、社会がこうした生き方を必要としてくるのは明らかである。改めてこの生き方の大切さを実感すると同時に、僕らだけでなく、より多くの人々が社会の見本となり、そのネットワークを広げていくことが必要だと感じている。ヤマギシ会は「全人幸福」というスローガンを掲げているのだから、彼らがそれにふさわしい生き方をすることが、僕らの喜びであり、世の中のためでもある。

ただし、彼らには彼らの歩みがあり、意思がある。それを尊重して、僕らの理想を押し付けるのではなく、彼らの歩みを認めることが大切だと思っている。しかし、ただその歩みを待っているだけでは、僕らの役割は果たせない。彼らが外の世界に疎く、目覚めの時が来ているのにそれを十分に果たせていないのならば、僕らには彼らに刺激を与える役割がある。

今回、豊里実顕地での講演が実現した。結果がどうなるかは、ただ頂く姿勢でいるだけだから、特に考えていない。しかし、結果として、ヤマギシ会の人々の中に大きな心の変革が起き始めている。それは今回の講演会もひとつのきっかけだったが、それよりも僕はこれまでにたびたびヤマギシ会を訪れて、多くの人々と直接対話をしてきた。中でも、不満分子と言われているような人たちと多く話してきた。そこで見えてきたことは、彼らがもともと理想に燃えてヤマギシ会に参画したものの、夢破れた人たちであるということ。その彼らが、木の花と出会ったり、僕と話をすることによって、もう一度目覚めて、参画の時の志を取り戻そうとしている。これはとても大きなことであり、今後のヤマギシ会の変革にとって大きな力となるだろう。また、そうなるべきである。これまで、彼らは一時的とはいえそうした志を忘れて諦めの境地に陥っていたのだから、ずい分いい風が吹き出したと思う。

そして今、僕らはヤマギシ会のあり方を尊重し、期待しながらも、あくまで彼ら自身が動くのを待っている。そういう立場に徹して、見守っていくことが大切だと思っている。

講演では、世界観や宇宙観について話した。ヤマギシ会はもともと高い理想を掲げてはいるが、その理想が日常の中で忘れられている。一般社会の人たちと同じように日常の些事にとらわれて、大きな世界観を持てないでいる。高い理想を目指すには、日々の確かな生活と大きな世界観がつながっていなければいけない。また、人が生きている本来の目的に目覚めるには、多様性を認め、広い視野を持つことが必要である。そういうことを踏まえて、僕らが普段から大切にしている世界観を伝えた。

地球の生態系の中で、人間は大きな役割を果たしている。人類にはその頂点に位置するものとしての役割があり、義務がある。そういったことを意識して生きることが、彼らの掲げる「全人幸福」の実践につながる。

ヤマギシ会の理念で語られていることと、今回の講演で僕が語ったことは同じである。それはヤマギシズムという思想に封印してしまうようなものではなく、世界人類に共通する普遍的なものとして、世の中のために広げていくべきものである。これまでヤマギシ会という組織のためにあった学びを、本来の全人幸福に向けた活動として実践していく必要がある。そういうことに気付いてもらうための講演だった。世界観の表現の仕方や枠の広さに違いはあるものの、ヤマギシ会も同じようなものをベースに持っている人たちだから、僕の話すことを理解できる人はたくさんいた。

特に伝えたかったことは、ヤマギシズムに共通する概念は世の中にたくさんあり、ヤマギシ会の中だけにあるのではない、ということ。この世界には、いろいろな歩み方がある。ヤマギシ会の人たちは、自分たちで考え、自分たちで答えを出していくと言う。しかし、それは創設者である山岸巳代蔵さんがヤマギシ会の発足から3年間しか生きていなかったことの結果なのである。もしも彼がもっと長く生きていたら、聖者としての巳代蔵さんがヤマギシ会の道しるべになったはず。しかし、結果として彼は3年しか生きていなかったために、残された人たちはそれぞれの裁量の中でヤマギシズムを表現してきた。そして、それは残念ながら、巳代蔵さんの深い精神性から少しばかり外れて、わかりやすい答えを出すことを優先してしまった。言わば、戦後の日本社会の縮図のような歩みが展開されたのである。

ヤマギシ会の人たちは、自分たちで答えを出したい、という思いが強い。しかし、それは「無所有」という概念を唱えながら、所有の心が強いということである。この世界を多様性という視点で捉えると、人にはそれぞれ役割があることがわかる。大切なことを語って人々を導いていく役割を持った者が、この世界には必ずいる。巳代蔵さんは、たまたまヤマギシ会の運動に3年しか関われなかった。それには何か大きな意味があるのだろうが、巳代蔵さんがその役割を十分に果たさなかった結果、ヤマギシ会の人たちは、物事をいただく精神や、「湧き出てくる人」に出会わなかった。それでは、本当の「無所有」に至ることはできない。そう言われるとヤマギシ会の人たちは違和感があるかもしれないが、湧き出ない人たちが10人集まろうと、100人集まろうと、それは烏合の衆なのである。そういう時には、湧き出てくる人からヒントをもらって方向を見つけながら道を切り開いていけばいい。ただし、そのときに僕らがよく言う「いただく姿勢」にならないと、大切なものを受け取ることはできない。

もし彼らが「全人幸福」をどんなことよりも大切にしていたら、どこから出てきたものであろうと、優れた考えは優れた考えとして、そのまま受け取ることができるはずである。しかし、実際には「自分たちで答えを出したい」という思いが先に立って、そうはならない。それは、彼らが自らの生き方を所有していることの表れである。

しかし、ヤマギシ会の長い歴史の中で、そのように自分たちで考えて歩んできた結果、さまざまな矛盾が発生してきた。その中で、少しずつそのことに気付く人たちが現れて、雪解けが進んでいくのだろう。共に歩みながら、彼らの歩みを見守っていきたいと思う。

ヤマギシ会で面白いのは、実顕地ごとに空気が違うこと。それぞれ独立しているとはいっても、何となく歩調が合っていない。それが、今のヤマギシ会を象徴している。それは、それぞれの実顕地を尊重しているとも言えるし、理念を共有できていないとも言える。誰も全体のリーダーシップを取らないから、まとめるのに時間がかかる。しかし、だからこそ民主的な場になる可能性もある。ヤマギシ会の人たちの考え方次第で、どちらにも行ける。

出会った者の役割として、僕はヤマギシ会に時には挑発的な投げかけをしてきた。それは、本来のあり方に目覚めてもらうためにしただけのこと。巳代蔵さんが生きていたらきっとしたであろうことを、代わりにしているだけである。

しかし、それを無理強いはしない。我々には今、外からのアプローチがたくさんある。そして、これからそのアプローチに応えていくという大きな役割があるのだから、それに専念していくだけ。ヤマギシ会の中で、今は時期ではないという結論が出されたとしても、我々は木の花の歩みとしてやっていくのである。常に世の為人の為。そこに冷めた思いもなく、熱い思いもない。

ともこ:でもいさどんは、ヤマギシのためにものすごく労力をかけているよね。

労力をかけることはいい。それが僕の人生だから。労力をかけたからといって、それに見合う結果を求めては、恋愛と同じになってしまう。どんなに労力をかけようと、それは自分の人生だから、相手には関係ない。相手がそれを受けてどうするかは相手の価値観の問題なのである。

ともこ:相手にこうなってほしいという思惑を持たなければ、疲れることもない?

思惑がなければ、疲れないとも言えるし、乱れない。道が違ったとしても、認められる。

ともこ:だけど、いさどんはいつも真剣でしょう。大切なところからずれている人に対して、すごく真剣に伝えている。

ずれていることを伝えるのは、こちらの役割だから。例えば、ある人が苦痛のところにいる。その人は苦痛の延長に喜びを求めようとしている。そうすると、そこにまた苦痛が生まれる。そういう喜びの求め方ではなく、本当の意味での喜びを見出すこと、それはこちらの喜びでもある。苦痛のもとになるような喜びを、喜びとしていてはいけない。

相手がわかっていなくても、こちらがわかっていたら、それは伝えるべき。それがわかっている者の役割。しかし、それが自分の思惑であってはいけない。こちらの目的ではなく、あくまでも相手の喜びのためでなくてはならない。だから、相手に聞く気のあるうちはこちらも一生懸命やるが、一たび相手にやる気がなくなったら、即座にこちらもそのエネルギーを使うのをやめる。これは冷たいからではなく、相手を尊重し、大切にしているからである。

ともこ:いさどんは相手に与えながらも、そこに思惑を持たない。神様もそんなふうに私たちを見守っているのかな?

神というのは、法則だからね。そこに情がからむことはない。

人間が執着するのは情があるから。自分の家族だから、妻だから、子だから、という情がある。情とは「なさけ」。しかし神には、そういうものはない。法則そのものなのである。

情のあることを、「愛情」といって深いもののように思うけれど、「愛」に「情」というなさけが付くと、それが執着となる。神の愛というのは、約束通りに現象をあらわして、約束通りの事を表現すること。だからこそ我々は、その中で安心していられる。特別なえこひいきがあるわけでもないから、安心して、ルール通りに表現していくことができる。この世界の仕組みそのものが、神の愛。本当の爽やかさと奥の深さがないと、それは表すことができない。しかし人間流に「できない」と言ってしまうと、本質から外れることになる。それはできるできないではなく、流れそのものなのだから。

ともこ:それでも、人間の気付きとか喜びを、神様も喜びとしているのですか?

それは、エネルギーだから。つまり、喜びのエネルギー。

エネルギーには、例えば悔やみのエネルギーや怒りのエネルギーもある。悔やみのエネルギーというのは、萎縮していく。怒りのエネルギーは、破壊していく。怒った時に、その怒りというのは、人間の中だけに発生しているもの。ところが、人間はその怒りを、別のものに表現する。茶碗を割ったり、相手に暴力という形で表現する。しかし、それは単に、自分の中にある怒りのメカニズムと、怒りのエネルギーが現れただけ。それがいろんなところに連鎖していく。すると、その怒りのエネルギーというのは、そういうふうに物を壊したり、病気をつくったり、対立を生んだりする。

喜びのエネルギーというのは、人をリラックスさせ、微笑ませる。同じ喜びでも、宝くじに当たったとか、会社が成功したなどというものは、いずれ不調和を生む原因にもなる。喜びにも、他者と共有できる永遠の喜びと、瞬間的に発生する極めてエゴ的な喜びとがある。神様が喜ばれる喜びのエネルギーというのは、自分の根本存在が善意であり愛であり調和であるとすると、そこが循環していくような喜び。単なる喜びとまとめて言ってしまうと、人間的な喜びを神様にだぶらせてしまうことになるが、喜びのエネルギーは大きさや深さに違いがあるという事なのである。

神は、人間がこの世界の神秘、真理に目覚めていく、深い悟りに結びつくような喜びを喜ばれる。人間が本当の存在の意味を理解することで初めて、人間と神が手を結ぶことができる。自分から離れていったものが、そのことを知って、再び手を結ぶ。そこで喜び合える。

喜びには種類があると言ったが、低い喜びが喜びではないのかというと、そうではない。低い喜びでも、初歩段階ではあるが、それも喜びなのである。それはプロセスとして繋がっており、エゴ的な喜びも、その過程の中にあることになる。多くの人間はその低いレベルに目的を置いてしまって、本当の目的を見失っているのである。しかしそれとて、神の魂の旅というところから考えると、プロセスではある。結局すべては神の手の中にあるということになる。

無知であることは、罪である。本来、人間はこの宇宙の法則に基づいて、神秘のもとに生きている。そのことに気付こうと思えば、いつでも目覚めることができる。その証として、人間にはこの複雑な世界を生きることが与えられ、様々な現象を通して目覚めていくように道が与えられている。それが、人間の生きている目的である。

ところが、そういった配慮のもとにありながら、いつまでも本来の目的を見出さない者は、霊的には低くなっていく。特に、宗教のように真理を語り、世の中のためにある立場を取りながら、その逆の状態になっている者たち。それは、言行不一致の歩みであり、罪の歩みなのである。

ただ、それは一つの見本でもある。真理のそばには、魔の扉がたくさん用意されている。だから、いつでもまっすぐな道を歩んでいくことが大切である。そうでないと、本当のことに気付けない。それは無知であり、罪である。

ともこ:よくわからないです。以前、この世界に存在するもの全てが尊いという話があったけれど、霊的に低くなるというのは罪なのですか。

そうやって頭で考えを巡らせて、質問する。そこに回答を出せば出すほど、真理から遠ざかっていく。僕も今、こういう風にあるべきだ、それをやらないと真理に目覚めない、それは罪である、という話をしたが、そういう風に伝えれば伝えるほど、道から外れていく。

法華経の教典があり、その解説がある。そこには解答が記されている。しかし、それ自体はあくまでもその法華経次元の解説であって、真理は一人一人が歩んで気付いていくもの。正しいとか正しくないというのは、ないのである。

あなたは質問をして、こうしたらOKという答えを求める。それを聞かれて、僕は答えを出すけれど、答えを出せば出すほど、それは答えから遠ざかっていく。誰かが一つの解答を出して、これが正解、ということではない。一人一人が自分で歩んで、確認していくことが大切なのであり、そして全ては一つの答えにつながっていくのである。

信念を持って歩めば、結果としてその信念のように答えが出る。この世界の流れに沿いながら、その法が開いていくと、そのようになる。

僕はただ、神様がこの一連の出会いを通して、どのような目的を示されて、どのような結論をもたらされたいのか、それを見せていただくのを待っている。僕の思いは、それだけなのである。

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