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「節目 ~2月4日・立春正月を迎えるにあたって~」

2012 年 2 月 3 日 ようこ コメント 2 件

2月3日の節分と4日の立春正月は、木の花の年中行事の中でもっとも重要な行事です。それを迎えるにあたって思うところを、多くの木の花ファミリーに関わってくれる人たちにメッセージとして送りたいと思っています。節分とは季節を分けることであり、冬の時代から春を迎える節目であり、立春を農の正月(1月1日)とすると、農の大晦日にあたります。自然とともにあり、農によって暮らしを営むものにとっては、立春正月を迎え、新たな農作業の始まりにもなります。そして、その前日の大晦日には一年を振り返り、自らの襟を正し、新たな年に向かうにふさわしいものでありたいと思っています。

私たちはこの世界に生をいただいて、自らの人生という旅の中でふさわしい出来事に出会いながら生きていますが、とかく人はその出来事を他者からのものとして受け取りがちなものです。しかし、そこで出会う出来事は、すべてふさわしく発信元である自らに返って来たものなのです。そういったことを日頃思う日々の私であっても、一年を通しての節目である時々をその見直しの節目として意識していただいています。それは、私たちの生活の中に一日という節目があるように、一日の中でも朝昼晩があるように、季節が四つの節目を持っているように、一年が12ヶ月の月で区切られているように、私たちが生きていく上で成長し、確かなものとしてその人生に落としていくためには、とても重要な役割をしてくれています。

仏教に「一止」という言葉があります。私たちは過去から未来に向かって生きていますが、一方通行のように前だけを向いて生きていると、自分の進む方向を見失ってしまうものです。真っ直ぐ正しく歩んでいるか、捉えられなくなります。そこで、何かの節目を迎えたときにその歩みを一度止めて、自分の歩んできた道を振り返り、過去が現在の自分にどのようにつながっているのか確認することが大切なのです。そうすることにより、今までの自分の歩みが今の自分にどのようにつながっているのかが理解でき、未来に向かってどのように進んでいったらいいのかが見えてくるものです。

この世界に生きているということは、とかく思うようにならないことが多いものです。自分の想いが叶うかどうかは、自分の想いを叶えようと安易に走ることではなく、自らがどのような役割のもとに生まれ、生かされているのかという目線に立ち、それをいただいていくことによって成っていくのです。自らの想いを叶えようと思うことは、自らが生きているという意識であり、私たちを取り巻き生かしている法からは外れていることになりますから、その法は私たちにその証として問題事を与えてくれているのです。

私たちはその問題を与えられた時々にそれを節目として一度止まって、それまでの歩みを振り返り、これから向かう未来に正しい道を開きたいものです。「一度止まって」と書いて、「正」しいとなるのです。木の花の一年のもっとも大切な行事である節分にあたって、その精神を持ってひとりひとりが振り返り、新たな春を迎えたいものだと思っています。旧年の多くの皆さまとの出会いに感謝するとともに、その出会いがつながり広がって、より良き社会が実現していくよう、ともに歩んでいきたいものです。感謝、合掌

カテゴリー: いさどん語録 タグ:

この世界をつくっているのは

2011 年 12 月 31 日 ようこ コメント 4 件

ヤマギシから木の花を訪れたお二人。3泊4日の滞在の中でいさどんと面談する時間が3回もたれたのですが、2回目の面談ではお二人のみならず、ヤマギシ全体に投げかける話がいさどんから語られました。

安美さん:ここで2日過ごさせてもらい、これからどう生きていくのかをはっきりさせていかないといけないと昨日の夜から思っていました。ここで生活している人たちを見ていると、毎日を本当に一生懸命生きていると思いました。「言葉で全人幸福と言わなくても、実際に菜食主義をしていることで世の中が平和になっていく」ということも、来たときから2日続けてこうちゃんが御飯のときに一緒に座ってくれて伝えてくれました。「今の村の暮らしというのがぬるま湯につかっている状態」というのは確かにその通りで、全人幸福を想い考えながら生活している人は、本当に少ないのではないかと思うのです。では、私がこれからどう暮らしていくのか。その答えはまだ出ていないのですが、もう一度よく考えたいと思っています。実際私と仲が良かった人で、ヤマギシが嫌だったというわけはなくても色々な事情で村を離れていった人が結構います。今でもその人たちとは時々会ったりしているのですが、本当に親しい人が村を出ていって、あるいは亡くなったりしていて、今村に残っている人で話したい人があまりいないという状況です。自分はここを出たいとは思わないのですが、今のままで村が良いとは全然思っていない、というのが今の私の心境です。

いさどん:今のままで良いとは思っていなくても、そういった日々を繰り返していくことにもなってしまいます。人によっては年齢が来ていますので、その人たちが臨終を迎えたときに、「私はこの理念に共鳴して参画したのに、いつになったらその理想世界に出会えるのか。それに出会う前にいのちが切れてしまう」と言う人もいたりします。理想世界、宇宙の真理は無限ですからあり続けるにしても、少なくともひとりひとりの中に達成感を持って旅立ちたいものです。それはここの生活のように日々が探究であり、活性し続けることであると思うのです。そのことによって、「やり遂げた」という人生の満足に出会い、旅立てるのだと思います。「この一生を生きていて良かった。悔いなし」と生きられると思うのです。すべての目標を達成するということは、代々受け継いで人類が地球に存在し続ける限り、追及し続けるものだと思うものですから。何かしらそこに私たちがひとりひとりの立場として、目指すべき姿があると思うのです。

哲さんはどうですか?昨日の大人会議に出席されている姿を見て、この人は理屈ではなく肌でここのリズムを感じていらっしゃると思っていました。そこにはしっかりと神経が行渡っている状態でやっている場所があると思うのです。そういうものをこの人は感じておられるな、と思いました。明日帰られるということですから、今夜の大人会議の場ではぜひ、この3泊4日の滞在の感想をみんなにもシェアしてもらいたいと思っております。そのあたりのことはどう思っておられますか?安美さんがおっしゃられたように、今までの自分も含めて今後どう村で生きていくのか、ということをお尋ねします。

哲さん:ここに来る前に2週間研鑽学校Ⅱに行ってきました。その中で、本当の世界というよりは自分の世界で全部見てきている、自分の世界に本当の世界を合わせ、結局自分の世界を見ているだけなのだと気づきました、前から自分にはそういう癖があるとは思っていたのですが、自分が発言してもそういう世界で生きているので他の人に伝わりにくい面が自分にはあると思いました。研鑽学校も昔は振り出し寮という研鑽機会もあって、そのときに自分の気持ちが本当にすっきりと出せ、そのことにみんなが反応してくれて一方通行ではないやりとりを感じたことがありました。自分はそこをやりたくて参画したはずなのに、いつも自分の世界にとどまってしまう自分の傾向がずっとありました。今回も研鑽学校でそういうふうになりやすい自分を感じ、今お話を聞いていても、そういう自分から脱却していきたいと思いながらも、どういうふうにしたらいいのか自分の中ではいまひとつ描ききれていないという状態です。2週間研鑽学校にいて気づいたのは、ただ自分の中で思っているだけではなく、それを実践していくということが大事だということです。聞くにしても見るにしても、どうしても自分の見方が入ってしまうので、そのときに自分から出すことで、自分の思惑を外していけるという実感が今回の研鑽学校ではありました。そのときに違ったものが見えてくると思います。今まで実践、実践と言葉では言ってきましたが、これからはそれを日々の中でやっていきたいと思っています。

提案と調正というのがあるのですが、私の右耳は参画する少し前から聞きづらく、難聴のようにじーんと耳鳴りがすることがあります。それを自分の中ではずっと置いてきたのですが、今回研鑽学校に行く前に補聴器を買うことを提案したのです。それで研鑽学校から帰ってきたら、私の提案に対して「こういうものではどうですか」という返事をもらいました。今まででしたら、自分はこういうことに関しては「こういうふうに言われたからそれでやろうか」とやってきたのですが、今回は自分の中でもっとこういうふうにしたいとか、自分でも調べてこうなんだということ、つまり「私意尊重公意行」の私意をもっとはっきり出していくということがありました。調正所からの返事をメールでもらったときには向こうの意図が漠然としか感じられなかったのですが、たまたまその人と直接出会って話してみたら「この人はこういうことを伝えたかったんだな」ということがお互いにわかりました。今までならよくわからなくてもそのままにしてきたのですが、今はそこをどういうことなのかと出してみることで、相手の意志が以前よりもわかるようになってきました。つまり、自分が取り違えをしていたことや相手も具体的ではなく漠然とした形で伝えていたということがあったのですが、出会ってお互いに出し合うことでそのことが明瞭になったのです。自分が受け入れるという点では、その人の言わんとしていることをまずは受けて、自分としては何をしたいのかということを自分に問いかけてみる。まずはその人の提案をやってみた上で、自分がこうしたいということがさらに出てくれば、また自分のほうからそのことを再度提案していく。今までは受けてそのままということが大半だったのですが、これからは自分のほうからもっと提案していこうと思った一件でした。今まで私は想いの世界では結構やってきたのですが、実践していくということが自分の中ではっきりしていなかったのかな、と思いました。これからは自分の想いだけにとらわれずにやっていきたいと思っています。

いさどん:研鑽学校はいつ終わったのですか。

哲さん:先月の30日です。

いさどん:その研鑽学校が終わって今、1週間が経ったところですね。研鑽学校が終わったときの自分の意識と1週間経った今の意識は変わってきていますか?

哲さん:そうですね。。。

いさどん:これを車にたとえると、研鑽学校が終わると問題があったところがオーバーホールされて出てきたということですね。整備されて出てきたという感じがするとしたら、研鑽学校に入って意識が変わったのと1週間後の今の意識は変わっています。変わってきているというのは、研鑽学校に行って変わったことに対して、行く前の自分が変わり続けているのか、それとも行く前の自分に戻ってきているのですか。

哲さん:自分は戻っていなくて、日々変わってきていると思っています。

いさどん:その日々変わりつつあるというのが今の話ですよね。ということは、哲さんの今の状態をもとにして研鑽学校の実態を読み解くと、今の話の中には「自分と相手」「自分と調正所」の対話しか出てこなかったですよね。村全体とか世の中とか、ましてや全人幸福などというものはどこにもない状態です。自分という枠の中に視点を取り過ぎたために、我執を取り去るどころか我執が増えている状態で研鑽学校が終了している状態ではありませんか。つまり、自分に興味があり過ぎるのです。誰でも自分に興味があるのは当然のことですし、あってもいいのですが、それは沢山の情報、多様なものの見方の中の自分というものであれば、全体性の中から自分を観るということですから、他者と自分を区別せずに見ることができるのです。それが我執がない状態です。研鑽学校Ⅱが何を目的にしているのかということです。Ⅰの目的、Ⅱの目的、Ⅲの目的が何であるのかは知りませんが、人が目覚めていくときにこの研鑽学校で受講者に特定の目的を提供するということは、その奥にある目的を明らかにしないといけません。特講でも研鑽学校でも、受ける人たちを前もってこういうところにいざなっていこうという目的があること自体がいかがなものでしょう。それをヤマギシの人たちに投げかけると、「目的はありません。その都度その場でつくっていくものです」と言いながら、現実にはしっかりと目的があるのです。そういう矛盾がありながら、やっている矛盾を理解できていない状態です。なぜそういう状態を続けているのかというと、自らを離れてしっかりと客観的に見ることができる人がいないので、そういうことが起きるのです。今の話を聞いていても、自分というものにとらわれた状態から視点が外に広がっていない状態です。それに対して「こうしなさい」とは言いませんが、客観的に見るとそんなふうにとらえられます、というひとつの情報提供です。

そうすると、ひとつここで今の捉え方を突破する方法があります。今、あなたは自分と調正所を分けて考えています。自分の想いや願いを叶えてくれる対象としての調正所なのです。ところが、ヤマギシの人たちはそういう認識がないかもしれませんが、私のほうが本来の調正所の在り方をとらえていると思います。それはどういうことかというと、自らが調正所なのです。調正所が自分なのです。しかし、現実にはそういった捉え方はありません。調正所は自分の提案を審査してやめておきましょうと言うのか、それはこのように受けましたと答えてくれるのか、という対象と見ているのです。しかし、あの調正所の世話係には自分もなる可能性があるのです。それから、自分たちの考え方の延長に調正世話係の姿勢があって、それが返ってきているとも言えます。ですから、本来は自分が考える賢明な提案は調正所に持っていけば、すべて通るはずです。それこそ、一部の人たちが好き勝手にやるような調正所であるわけがないのです。賢明な発想を調正所に提案すれば、賢明な発想に対して賢明な回答が返ってくることは当り前です。そこで、調正所やヤマギシの村の都合で答えが返ってくるのもおかしな話です。それから、自分の都合だけを求めた答えが返ってこないことに対して、こちらが不満を言うのもおかしいのです。本来それは、どちらも一体の状態であって、全体のことを考えた個人の動きであるべきなのです。個人が個人で勝手にやったら共に生きている意味がないのですから、一体社会を実現するために、自らが提案したことに対して自らが回答するという役割分担を調正所と村人という関係の上で、わざわざ分離してつくっているだけです。本来は一体社会を体感するための場所であるはずが、今の話は完全に自分と調正所を分離している状態になっているのです。

さきほど、安美さんにも哲さんにも「どうですか?」と聞いたのは、まずは自分の考えを他者に共有することが大切だからです。ですから、一番身近な、ここで言う毎日の大人会議に参加したらどうですか、と提案しました。それは仲良し研であったり、一番身近である職場で自分というものを裏表なく出すということです。調正所に提案するときにも、自分のためではなく、この個人の願いはヤマギシのため、全体のために有効であるという視点で提案していく。そうすると、調正所はそれを受けて、個人の望みを叶えることはヤマギシのために大事なことになるのです。そして、その提案が通っていくようになるのです。そういった姿勢をお互いに持つことが大切だと思います。そうすると、提案と調正というものが全体を健全にするためのものになるのです。そこには拒否するとか、ならないことに対して不満を言うということがなくなるはずです。その意識が分離してしまい一体社会になっていないから、物事がスムーズになっていかないのです。本来それを理解するための研鑽学校であるべきなのに、我執が増幅してきている状態です。それがさきほど私が言っていた、研鑽学校という場は個人を振り返りなさいというところにいざなっておいて、全体に対する批判をなくして、全体を運営しやすいようにしているところということです。簡単に表すと、組織を運営しやすくするためのマインドコントロールの場所になっているのです。だから、研鑽学校に対して拒否反応を示す人が出てくるのです。しかし、本来はそういう場所ではなかったはずなのです。個人が目覚めてイズムにふさわしい人になり、一体社会を実現することによって、組織と個人が表裏一体のネットワークの中でイズムが繁栄していく、それが本来のヤマギシズムです。ところが、現実にはヤマギシの中にいても、どこにヤマギシズムが表現されているのかわからない状態になっています。外からヤマギシズムを伝えられても、中にいる人たちがそのことに気づいていないのです。そこに目覚めてもらうことが大切です。

まず、あなたは仲良し研に出ていませんよね?興味も持っていませんよね。安美さんはそういった理想を他者に投げかけてきたのですが、全く反映されないことから嫌になって出ていない。哲さんはそういうことを意識してないから出ていない。しかし、そういったところにみんなが出て、そこにある情報が共有され、その情報が調正所や運営研に反映されて全体が運営されていくこと、それが主権在民であり民主主義の世界です。ところが、末端の人々はそのことを忘れてしまっていて、組織運営は組織に都合の良い民衆をつくることによって、運営を楽にしているのです。それが今のヤマギシの実態です。本当は中心的な人たちにもこのことに気づいてもらいたいのです。中心的な人たちも本来単なる村人で、平民であるべきです。ところが、そのわけがわからないところで調正所世話係になったり、世話係に関係なく影響力のある人たちがそこの意識を理解しないで存在していることが問題の元なのです。それをさせている一番の原因は、ひとりひとりがイズムに目覚めていないところにあるのです。「私はあなた あなたは私」、「私はヤマギシでありヤマギシは私なのだ」という意識になったときに初めて、あなたという個人が生かされるのです。あなたは何のためにヤマギシの村人でいるのか、ということが生きてくるのです。外からこういうことを私が言うのはおかしいですが、山岸さんが天から今のヤマギシを見ていてためいきをついているのか、50年は長かったがそろそろ次のステージに行こうよ、と言っているのか。天からの何かしらの投げかけがあって、木の花との出会いがあったと思うのです。私はヤマギシの村に行き、座談会や交流会の場で伝えたいのは、「私はいさどんの考えを伝えているわけでも、木の花のイズムを語っているわけでもありません(そんなものは元々ありません)。私はヤマギシに来たらヤマギシズムを語ります。法華経を学んでいるところに行けば法華経を語ります。表現は色々あっても、真理はひとつしかないのです」ということです。

ヤマギシの中にいてなかなか木の花詣が難しくなってきた時代に(笑)、おふたりは3泊4日もしてこれたのですから、ぬるま湯の村の生活やマインドコントロールの2週間の研鑽学校に時間をかけるよりも、はるかに有効な木の花の3泊4日の滞在を村に帰って日々の形の中に顕わしてみんなに示してもらいたいと思います。それで、「哲さんや安美さんはなぜそのように変わったのですか」と問われたら、「木の花に行って、本来の自分の在り方に目覚めたのです」と言ってもらいたい。これは私の株を上げるためではありません。しかし、結果として今は木の花の在り方に気づいてもらいたいし、私の言葉に耳を傾けてもらうことが大切です。それを中には、「私たちには理想の教えがあるのだから、外の人の言うことは聞かなくてもいい」と木の花を訪れたことがない人がそんなことを言っていたり、かじってみたら、「どうもあれは木の花菌に汚染されそうだから、なるべく避けていったほうがいい」と言う人もいます。真理はひとつであるのに、狭量な精神の人がまだ沢山いるのです。

安美さん:彼が「研鑽学校に行く」と言うものですから、「それは研鑽学校に行くように言われたの?」と聞いて、「行くのであれば、木の花に行ったらいい」と言いました(一同、笑)。「研鑽学校に行っても同じことだから、やめたら」と伝えたのですが、結局行くことになったのです。それで、帰ってきてからもまたぐちゃぐちゃと言うものですから、私がまた突っこんで話をしたのですが。。。

いさどん:ふたりだと、その話には決着がつかないですね。

安美さん:彼が気づいたと言っていることは、今まで私がそばから見ていてずっと言ってきていることなのです。しかし、それを言っても、「そういうことではない」という感じで、「それはあなたの見方でしょ」といつも返ってきていました。そういうやりとりがあったものですから、「それは私が言ってきた通りで、あなたが今頃気づいたことではないでしょ」と伝えるのですが、実際にはそういう感じなのです。最初、みんなが木の花に行き出したときに私が行かなかったのは、これはヤマギシを動かしている人たちが今実顕地がどうしようもない状態になっているから何とかしようとして、みんなの意識が参画したときのような気持ちにもう一度なれば村が変わるのはないかということで、そういうふうに変えさせるために行かせようとしていると私は思ったからです。

いさどん:それは実際にそうです。

安美さん:だから、私は行かないと反発したのです。どういうところで行かせようとしているかは知らないけれど、私は乗らないぞと思ったのです。それで、様子を見させてもらっていたのですが、実際に議事録もメールで読ませてもらって木の花は本当にやっていると思ったので、ここに来てみようと思いました。実際に言われてみて、実顕地の中で全人幸福を掲げていても、研鑽学校ですら世界中の人たちがみんな幸せになるように、あるいは実顕地のひとりひとりが幸せになるというところでは、そういうものが一切出てこないのです。だから、言っていることとやっていることが全然中味が違うというか、いさどんのおっしゃる通りだと思います。私たちの前に出てくる持ち帰りコーナーの野菜はかなり日にちが経ってますしね。昨日、私は木の花の厨房に入らせてもらって、「すごく元気な野菜だな」と思ったのです。

いさどん:それは見てわかるかというと、感じてわかるということなのでしょうね。

安美さん:そうですね。昔は愛和館はおいしいと言われていましたが、はっきり言って、今は実際本当に美味しくない時が多いです。普段全然文句を言わない人でも「本当に美味しくない」と言うくらいなのです。だから、「今日のこのメニューで若い人や子どもたちは果たして食べるだろうか」というような状態のときもあります。お金をかけないということで、金銭的にも削っているということもあると思いますが、私はずっと前からビタミンI(愛)が入っていないということを言ってきました。

いさどん:私もそう思います。気持ちがこもっているか、こもっていないのか。それは作業としてやっているということだと思います。

安美さん:自分が本当に子どもやおじいちゃん、おばあちゃんのためにと想ったら、もう少し手を加えると思うのです。しかし、それがないと私は思うのです。

みかこ:ヤマギシの中に「一体」という言葉がありますよね。しかし、「自然との一体」ということが欠落していると感じます。

いさどん:地球とともに生きているということとかね。

みかこ:人にばかり意識が行っていて。。。

いさどん:人というよりもヤマギシにだよ。

みかこ:ヤマギシを存続させるというところに意識が行っているから、地球みんなで一体、しかも人間だけではなくて、あらゆる生命との一体という感覚が欠落しているから、ああいった動物をあのように育てて食べていくということをし続けているのだと思います。ヤマギシの中に固執しているから、やる人とやられる人とか、リーダーとついていく人とか、そういう分け隔てがあるところが随所に表れていますよね。

いさどん:それは今、体制を守ろうとする人と変えようとする(不満を言う)人に分かれているのです。

安美さん:実際に自然と調和していないのは、今までヤマギシは経済優先だったと思うのです。それがヤマギシを守ろうということにもつながっているのだと思います。だから、排水を垂れ流しても、そこにお金をかけないとなったら、そこを指摘する人のことは黙殺、そういう人を排除する、何もやらない。だから、農薬をばんばん撒いていて近所の住民から苦情があっても、文句を言わせないようにするとか、夜隠れて撒くというようなことでやってきました。それで世間に対しては無農薬ですとか、有機栽培ですと言っていて、昔は神戸生協とも大分やりとりがあったようなのです。

みかこ:そうやってあちこちに嘘があるけれど、研鑽というのは自分の中の嘘を見ていくものであるはずです。

いさどん:美しい心というのは、嘘のない自分がベースにならないといけない。

みかこ:嘘が自分にあると、嘘をずっと続けていかないといけないので、嘘の辻褄を合わせるためにまた次の嘘をつかないといけなくなってしまうのです。そういう意味でも、研鑽してないですよね。

安美さん:研鑽というのが、本当のところの研鑽(心を磨く)でなかったから、こうなっているのだと思います。

みかこ:そうですね。体制に順応する人をつくるための研鑽になっています。しかし、本当に目覚めていくというのは、人も含めたこの世界の仕組みに目覚めていくことです。ヤマギシの立ち上げ当初は、産業もある意味必要だったでしょうが、さきほどいさどんがうさぎと亀の話をしたように、それでは時代のほうが追い抜いていってしまいますよね。新聞やテレビも見ないと浦島太郎状態になってしまって、進んでいたはずが取り残されてしまいます。今だと若い人も残っていないから、消滅する方向に向かっていると思います。

いさどん:実際に、かろうじて残っている人たちに受け継がせようとしているのですが、そういう人たちよりも一般社会にいる若い世代の人たちのほうがはるかに意識が進んでいます。ですから、その人たちが共鳴して入ってくるような受け皿をつくるべきなのです。ところが、閉鎖的でそういう人たちが入ってくるような体制にはなっていません。木の花に若い人たちがどんどん入ってくるのは、私たちが常に変化することを恐れないからです。今を所有せず、常に新たなものを取り入れる意識を持っている人たちが共鳴する場をつくっているからです。

みかこ:やはり時代は進化しているので、地球全体で見たら、人間も先に生まれた人たちが変わっていかなければ、次に生まれてくる進化した世代に置いていかれてしまいます。だから、時代とともに変化していくことが大切です。ヤマギシはそれをやっていないから、若い人たちも来ないのです。

いさどん:やっていないというのは、無所有と謳いながら、これほど所有している人たちがいるだろうかというくらいです。何のための特講や研鑽学校なのかということです。無所有を利用しているのは、組織運営のために都合の良い人をつくるために個人を手放すというだけで、全体というものの所有を完成させているのです。そういう世界になっています。だから、哲さんの話を聞いて、あなたがこういう状態になっていくというのは組織としてはやりやすいのです。本当はもっとNOはNOとして言える人があり続け、そういう人たちがとことん出し合って、本当に風通しの良い活性化された場所をつくっていく、それを恐れないことが大切なのです。

安美さん:ヤマギシは変革を恐れるのです。変革させたくないのです。研鑽する、研鑽できるということは、研鑽できると目されている人たちが「こうです」と言ったことに対して「はい」でやる人が研鑽できるということなのです。

いさどん:その通りですね。

みかこ:ヤマギシの改革は、その構成員ひとりひとりが束となってつくっているものだから、ひとりひとりの心の変革がなかったら起こらないのです。その牛耳っているという人をつくっているのは、牛耳られている人たちがつくっているわけです。調正世話係になって人格が変わるような、誰があれを決めたのだろうというと、誰だろうね、なんかそうなっていっちゃったんだよね、というようなところで動いていたりすると思うのです。それはひとりひとりが自分でつくっているという自覚がないままに、「なぜこうなってしまったのだろう?」という世界を無意識につくっているのです。だから、自他を分けないことが大切だと思います。木の花では、「木の花のこういうところが嫌だな」とメンバーのひとりが言ったときに、それは自分と木の花を分けているからであって、嫌だなと思えばまずは自分がそこを背負って変えていく側になればいいのですということになります。

いさどん:そして、自分が全体を変える気持ちになったら、それをみんなが聞いてみんなのものとして協議します。

みかこ:文句を言う側ではなくて、自分が常につくっていく側になればいいのですよね。

いさどん:しかし、ヤマギシの場合は末端にいる人たちが変えるための提案をすると、今度は組織側の人がそれを排除しようとする力が働くという世界ではないですか。これは組織としては一番危険なことなのです。木の花ではそういうことは絶対ありえません。そういった不満を聞いて、全体としてあなたはどういう考えを持っているのか、逆に言えば、みんなはその人に対してどういう対処をしていくのか。ひとりは全体に対して自分をどう観ていったらいいのか、ということをすべて吟味した上で、ひとつの解答を出していくという方法をとっています。そうすると、体制側と個人という区別がなくなってきます。

安美さん:今までは、「これはおかしい」と実際に言う人も少なかったです。

いさどん:それは少ないのではなくて、思っているのに言わない人、それから言えないところだったということです。だから、ここに来ると沢山話が出てくるのです。誰もが、「おかしい、おかしい」と言うのです。ひどい話になると、自分たちの中では「おかしい、おかしい」と言うのですが、たとえば木の花とヤマギシが出会った初期の段階では、高木さんやいさどんに言われるとか、木の花の議事録で言われると、自分たちが日頃そうだと思っていることでも、外から言われると腹が立つというのです(一同、笑)。そのくらい、ヤマギシを所有しているのです。「よく考えてみると、これは私たちが日頃言っていることだ」と言いながら、「外から言われると、いさどん、腹が立つのよ」と言ってきた人がいます。そのくらい、自分の姿が見えていないということです。そういう人たちがだんだん自分に目覚めてくると、「これではいけない。そういう狭い心ではなくて、自分を客観的に見る目をつくらなきゃ」ということで変わってきています。

みかこ:あとは、「10年このことをずっと思っていたのです」とか、「20年思っていたのです」とか、思っていながらそれを言わないというのは木の花では考えられないです。

いさどん:木の花でもし、言わない人がいるとしたら、みんなはその雰囲気を見てほっておきません。実際に私のところにヤマギシの人が訴えてきた話で、あまりにも過激で刺激的で公開できない資料があります。面白いのは、「個人の話を出して誰かというのが特定できると、村にいられないからやめてくれ」という人が何人もいます。本人が覚悟を決めたら出しますが、多くの人は覚悟ができていません。逆に、そういうものを出したら体制も批判的だと受け取るので、これもヤマギシ全体の意識レベルからしたら時期尚早だということで、こちらで封印しているものがあります。ですから、最近私が思うのは、ヤマギシと付き合うと木の花のような正直なところでも、正直を出せない場所になっているというのを感じています。

みかこ:だから、議事録でも、今のヤマギシの部分に関しては議事録に載せないように、とすごく気を遣って情報公開しないようにしています。

いさどん:本当は何でも出せるヤマギシとの関係でありたいのです。

安美さん:それは昔から、話したことがすぐに調正所関係者に伝わり、実顕地を変えられたり職場を変わることになったりして、それを出すと実際危ないというのがあります。みんなもそういうことを聞いたり、無意識にみんなで抱えてきたので言えなくなっています。

いさどん:そういう体質が染みついてしまっているのです。それは病気で言えば、結構症状が進んでいる状態です。

安美さん:ですから、病気にはならなくても、そういう人も結構いますしね。それはやはりおかしいと思います。今はないですけど、「ヤマギシ社会に病気はない」ということで、昔は病気になっても病気ということを言ってはいけないというような緘口令が敷かれていました。

いさどん:そんなことも言うのですね(笑)。それは本音と建前の違いが甚だしい話で、嘘の世界です。

安美さん:昔、仲の良かった友人にしばらく会わなかったのでどうしたのだろうと思っていたら、「長いこと入院していたのだけど、病気のことは人に話すなと言われて言えなかったんだ」ということでした。手術の日にご主人以外付き添いもなく、かなり精神的に厳しい状態だったみたいで、そのことも村を出る要因の一つと聞いています。

いさどん:みかちゃんのガンはブログにして出していますよ(一同、笑)。

みかこ:ヤマギシは問題事を悪いこととしているけれど、ここでは問題事はそこから学ぶために神様がわざわざそういう世界をつくったという捉え方をしています。たとえば、怒ってはいけないとか病気はダメということではなく、病気が出たらその奥にある問題は何だろうと解明して学んでいきます。怒るということについても、なぜ自分が怒るのか、それにヒットするのかを見ていきます。そうやって、奥の根本を探ることで超えていくということをしています。そもそも問題は歓迎というか、そのように学ぶためにつくられたものと思っています。

いさどん:問題は歓迎といっても、わざわざ辛いことが起こるようにとは思いませんが、起きてしまったことに対して排除してしまうのではなくて、それは素直にいただいてそこから学んでいこうとする前向きな姿勢が大切なのです。それはやはり、同じ理念だとは言うものの、現実に落とすときには随分歩みが違います。そこを学ばないといけないのですが、まず、学ぶという姿勢がないのです。

みかこ:必ず人間にはハードルが与えられます。私がガンだと言われたときもうっとしました。何かというと、私個人のことというよりも、ここはガンや病気をつくらない場所であったはずなのに、ここのメンバーがガンになるということは困ったことだと思ったのです。いさどんブログ「充実した人生を生きるために」にも詳しく書いてありますが。しかし、なったものはなったこととして、これは私の心の構造がつくったものであるし、それが木の花に表れたというのも事実だと受け止めました。

いさどん:それを認める潔さが大切です。

みかこ:そこをどう振り返り見つめて、どう未来に次の種として撒いていくのかということですよね。今までと同じ種をまた撒くのか。そうすると、今までと同じような問題を起こす未来が待っているのは明らかです。それを学んだときに、未来にどんな種を撒いていくのか。日々、私たちは常に種を撒いているのです。

いさどん:みかちゃん、ここで1曲歌わないといけないね。それしかないよ。

みかこ:昨日のコンサートでは「あなたは私 私はあなた」という「いのちの泉」を歌いました。これは理想の世界ではあるけれど、それをするためにはその前にこの歌が必要なのです。

いさどん:すごく豊かだなと思うのは、日々の生活があって、それを読み解く地球暦があったり、それを表現する音楽があったり、それを表現する生活そのものとしての子育てがあったり、精神性があるというのは豊かです。精神性と生活が本当に一体となって日々がある。そうすると、休みがほしいとか、お金がほしいとか、あれが食べたいとか、そういうことはどんどん消えていきます。

安美さん:穏やかな生活だと思います。

いさどん:そうです。それと、誰も日々の生活の中に不安や不満を持っている人がいません。本当に淡々とそこで事が進んでいきます。だから、木の花で理想を見たということで帰ってもらいたいと思います。ヤマギシと木の花を比べての違いというよりも、「私たちもあれを目指していたんだね」と。気づいた人からその旅を始めるというところにつながったらいいと思います。別に木の花になれ、と言っているのではありません。それに最終的には、最初にヤマギシから木の花を訪れたりっちゃんが言っていた、「ヤマギシも木の花もない、地球ファミリーだから一緒にやっていく」ということです。私たちは常にその心がありますが、ヤマギシの人たちはまだまだ区別しているのです。今回、ヘリオセンターを建てるにあたって、大工さんの応援をヤマギシにお願いしたのですが、今までヤマギシからの提案を私たちが拒否したことはありません。それどころか、難しくても、どうやったら実現できるだろうと考え、実現できるように努力してきたのですが、ヤマギシの人の中にはいかにそれを断るかということを考えるような人もいます。努力している人がいても、大切なこととしてつなげていくという意識が薄いと思います。だから、流れの悪い一体を表現しようとすると、出来あがったものが良くありませんから、もうやめましょうということで私たちだけでやっていくことになりました。それはこちらに都合が悪いということではなくて、ヤマギシが徳をなくすということです。損得だけ考えているから、徳を積み上げることができません。私たちは慈悲や愛のベースになっている徳を考えていますが、ヤマギシのベースは損得の得になっています。そこに気づかないといけません。さあ、みかちゃん、歌ってください。

♪この世界をつくっているのは

毎日 毎日 たくさんの出来事の中で
いろんな感情が 私たちの中にやってくる
どこからか やってくる このたくさんの感情を通して
私たちは 心という 宇宙を学びつづけている
もしそこに 不幸や対立が あったとしたら 1人1人が
その種を自分の中に見つけて とり除いてゆくならば
この世界は 変わってゆくだろう
それが この世界の仕組み 宇宙の仕組み

あなたと 関係のない 誰かが この世界をつくり
あなたから 自由や創造を うばい続けて いるのではなくて
宇宙の光の分身である 私たち1人1人が
この世界をつくっている そのことに みんなが気付いたならば
自分につながる 全てのいのちのつながりを傷つけない その為に
あなたが発する想いの全てを 今から変えてゆく それだけで
この世界は 変わってゆくだろう
それが この世界の仕組み 宇宙の仕組み

まいた種をかりとるのは 1人1人の責任
みんなでまき続けた種が 今もこの世界をつくっている
心の中に いろんな想いの種をみんなかかえている
何もかも 誰かのせいにすることはできない
ならば 

あなたはこの世界にどんな想いの種をまきますか
そして この世界に どんな花を咲かせますか
この世界をつくっているのは この世界をつくっているのは 私たち

いさどん:今日は歌があるといいなと思っていて、曲はこれだと思っていました。そうしたら、打ち合わせはしていないのに、みかちゃんがこの歌を歌ってくれました。これが以心伝心、一体ということですね。

安美さん:そうですね。私は昨日の朝起きてから頭が痛くて、これからどのように生きていったらいいのかを考えていました。今日の面談ではすぐに姓名判断に入るのかなと思ったのですが、はじめに色々と話してもらって良かったです。ありがとうございました。

いさどん:個人を読むということはすごく大切なことで、地球歴や家系図など色々な方法がありますが、とかく人は自分の都合の良い世界を求めるために読んでもらいたいと思うものです。しかし、個人というものを指標として読むことはいいのですが、その目的は自分の本当に目覚めて、世の中のために生きることです。それを歩み始めたときには、個人というものを知らなくても、逆にその純粋な心が理想の道に導いてくれるのです。何でもそうですが、使い方を間違えると有効なものが問題になり、問題でもその奥にあるメッセージをしっかりと受け取れば、問題事が私たちに素晴らしい道を与えてくれることになるのです。ですから、いつでも学ぶという姿勢が必要なのです。あとは、私たちが何のために生きているのか、という自らの存在を常に問うことが大切です。できれば、胸を張って真理に向かって真っすぐ正攻法で歩んでいきたいと思います。

安美さん:私もこの年になりましたから、どう死ぬかということも少しは考えますね。これでいいのか、と最近考えます。

いさどん:同じ世代として、ぜひやってもらいたいと思います。やはり世のため人のためになりきることだと思います。

みかこ:私はいさどんから、「こういう歌を歌っているということは、そういう世界に気づいているということ。しかし、その生き方をしないということは、知らなくてやらないより、知っていてやらないというほうが罪が大きいんだよ」と言われたことがあります。

いさどん:知らなくてやらないのは罪ではないのです。それは段階が低いだけのことですから。しかし、知っていてやらないのは罪です。それは全く違うのです。ですから、ヤマギシの村人として参画して意識を持っているのにやらないのは、罪人なのです。そこを意識してやらないと、道を歩む人は歩んだだけ、自分のためではなく社会に責任があるのです。「仏の悟りは仏のためにあらず。仏の悟りは一切衆生のためにあり。」だから、尊い道は自分のために生きる道ではないのです。

みかこ:木の花の人たちはわざわざ自分の垢を大人会議で出して、「こんなことを学びました」とか「自分ではわからないので、みんなのアドバイスをください」と言い、それを議事録にまでして配信しています。それは自分ひとりだけの学びではなく、そういう世界を知らなかったり、そこで同じ問題を抱えて立ち止まっている人たちのためにもやっているのです。

いさどん:ここの大人会議は議事録を通して、ヤマギシをはじめ、沢山の外の人たちにも参加してもらっているのです。プライバシーのような情報まで出しているのですから、ヤマギシでは絶対ありえない話です。運営研や調正所の話をオープンにしているようなものですから。しかし、調正所はそこでの話をオープンにしていません。ここでは個人のことすらオープンにしています。それは覚悟ができているし、気持ちの良い世界を目指しているからです。

みかこ:だから、晴れの日ばかりではないし、雨の日や嵐の日も公開するのです。しかし、日は続いていくので、それがまた解決されていく様子もすべて見てもらうことで、「こういうふうにして超えていけるんだ」ということを議事録を読んでいる人たちも味わえるじゃないですか。常にオープンなので、その日限りのゲストでも発言は許されています。

いさどん:ここのことがよく理解できていない人でも、それこそ発言することを許されているのです(笑)。

みかこ:話の流れがわからなくて、ぽっとその場に居合わせた人でも発言はできるのです。

いさどん:それはヤマギシの中では考えられない世界です。

安美さん:考えられないですよ。全員が参加ということもないですし、一部の人しか参加できないですし。

いさどん:それこそ、いきなりゲストが来て、それもここのことをよくわからず、知り合いに連れてこられた人がここの過激な大人会議を見て反応していても、発言できるのですから。それはものの見方として多様性を認めるということでもあります。それすらもみんなが受け取って、それをどうとらえていくのか、という学びにします。その覚悟はオールメンバーの域に達しています。

みかこ:それは私たちが木の花を所有していないからです。ここがどう思われるのかということではなく、私たちが学んでいる姿をオープンにして共に学びましょうということなのです。だから、私のガンのことでも世の中ではガンの人が沢山いますよね。それはメッセージにあふれていて、それをどう受け取るのかということをオープンにしていったら、そのことで何人かの人のためになると思うから、こうやってオープンにしているのです。

いさどん:ということで、これを機会にまた新しい年が来ようとしていますし、意識を新たにしてやっていきましょう。これは私たちのためではなく、それぞれ自分のためであり、世の中のためであり、そういうネットワークをつくるという意味で、改めてまたよろしくお願いします。

ようこ:最後にひとこといいですか?最近私は涙もろくて、今日もいさどんの話を聞いたり、みかちゃんの歌を聞きながらほろっと来ていました。最近は自分の中で、宇宙の始まりから今にいたるまでとか、人類が誕生してから今にいたるまでが、自分がこの世界を創造した側になって走馬灯のように駆け巡る瞬間があります。この面談中もそうだったのですが、ようやく人類はここまで歩んできたんだ。この歴史の積み重ねひとつひとつに、私は人間として地上にいるばかりではなかったのですが、それがさーっと流れてきて、こうやって高い能力を与えられた人間が、その知恵や能力を心磨きやみんなとつながってこの世界の側に立って生きていくというステージにようやく立ちつつあるんだな、と感慨深くなっていました。

いさどん:そうだね。その高い能力を生かすということ、その道に歩み出すということです。今まではその高い能力を人間の側に使ってきたのだけれど。

ようこ:人類史上初のこれだけの数の人間が地球上にいて、これからつながっていくというのは、本当にドラマチックな宇宙劇場を生きていくのだと思っています。そして、それは苦しむためにあるのではなく、楽しむためにすべてはあるのだと思うと、どんな問題事も喜びに変えていけるから、面白い時代を皆さんと過ごさせてもらっているなと思います。縁あってつながった人たちと共に歩めることを楽しみにしています。

いさどん:その時その時が出発点ですから、ここをまた新しい道の出発点にしましょう。今日はどうもありがとうございました。新しい年にあたって、心新たに歩んでいきましょう。

★後日、安美さんから以下のようなメールが来ていました。

私は木の花から帰ってきてから、私が頑なな心になり周囲の人たちと垣根を作っていたなと気づきました。ある日、お風呂の前の廊下の椅子に座っていたとき、出てきた2人の人たちににこっと笑いかけたら、その一人が「あらっ、安美さんって笑ったらいい顔をするのね。黙っているときは怖いけど」と言いました。そうだな、私の笑顔は素敵と昔よく言われたなと思いだし、自分を振り返ることが出来ました。その後、家研にも出て、ふりかえり研には努めて行くようにしています。先日、愛和館にも何年ぶりかで入りました。(持ち帰りコーナーから貰ってくるのを忘れたので。今までなら、もう無しで済ませていました。)私がこの実顕地の重たい空気を作る一役をやっていたと気づいたのです。これからはいつも笑顔の私でいられるように、心を開いて生きたいです。

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目覚めよ

2011 年 12 月 30 日 ようこ コメント 4 件

★この投げかけは、できればヤマギシの村人全ての人に伝えたいメッセージです。これに共鳴する人は、村人、会員さんなどの関係者にできるだけ多く伝えられるよう努力して下さい。

この1年のヤマギシのみなさんとの出会いを通して、今朝目覚めたときに、自分は何を伝えたいのだろうか、と思っていました。私は基本的におせっかいはしたくありませんが、何かの縁があって互いの関係がそこにあったわけです。今から10年以上も前に、ヤマギシで生まれ育った増田望三郎くんがここへ訪ねてきました。それまではどちらかと言うと、評判の悪いヤマギシというのが私たちの頭の中にありました。愛知県の尾張一宮の真澄田神社の商店街の通りに、ヤマギシの移動販売車が止まっているのを見かけたことがありました。その車を見て、お客さんに直接届けたり、定期ルートをまわりながら販売するということをやっている人たちもいるんだ、と思った記憶があります。それがヤマギシというところという情報はありましたが、全体像はわかりませんでした。聞こえてくるヤマギシの情報、たとえばバスで子どもが亡くなったとか、学園の申請が反対運動のため却下されたとか、そういったことは一般の情報としては来ましたが、私は一般の情報を鵜呑みにする人ではないので、自分が出会わってみないとわからないと思っていました。

そのようなときに望三郎くんが木の花を訪れ、ヤマギシの情報を伝えてくれました。しかし、それよりも、木の花のことを彼が自分のホームページで発信したものですから、それにヒットしたのがヤマギシの会員さんたちでした。今ここのメンバーであるヤスエさんもそのひとりですし、ここのNPO法人青草の会の仲間であり静岡に住んでいる忠さんという人もヤマギシの会員さんであり、よく村人にならなかったねというくらいとても熱心な人です。それから、青草の会初代の副会長をしていた藤本さんという歯医者さんや、会員でも有名な戸隠そばの津村さん、東京方面では道越さんなど、会員さんでも10数名の人たちがここに集まってきていました。彼らは、「ヤマギシの村に会員が投げかけても、ヤマギシの人たちは会員の提案を聞かない」と言っていました。彼らはヤマギシの村人にはなりきれない人たちですが、全人幸福運動を広めたいという心はあるので、自分たちも関わりたいという人たちでした。それで木の花と出会い、「菩薩の心を持った人たちが集まって村づくりをする」という考えを聞いたわけです。私は30年ほど前にはその村のことを「菩薩の里」と呼んでいました。それはヤマギシの青本で示されている、オールメンバーの精神を持った人たちが暮らす村ということです。青本では10人のオールメンバーと言われていますが、本来10人と限定する必要はなく、全ての人がオールメンバーであるべきなのです。木の花で言うと、全員が菩提心を持った菩薩であるということです。そういう考え方でここが成り立っていたものですから、会員さんたちはその在り方に共鳴して、青草の会というNPO法人が立ち上がることになりました。そこに集まって多くの力を注いでくれたのがヤマギシの会員さんたちだったのです。

当時、会員さんの中からもヤマギシの矛盾について話が出ていました。共鳴するところとできないから一緒にやれないところ、それから会員の賢明な提案を取り入れないヤマギシの体質がありました。それで、私はヤマギシの村の人たちに会ってそういったことを問うてみたいと思い、ヤマギシのリーダーにコンタクトを取ってほしいと言ったのです。今から10年以上も前のことです。そうしたら、会員さんたちは「ヤマギシにはリーダーはいません。全体で動いているから、リーダーという人がいない体制です」と言うのです。しかし、そういうふうに建前では言いますが、「実態は、何かを表明するときに誰かが代表して語らないような組織は社会的にはないのですから、いるはずじゃないですか」と言った記憶があります。それで、よくよく聞いていくと、「実はいないわけはなくて、います。その人は北大路という人です」と聞きました。当時の私が受けた印象としては名前が北大路だから、巨大な人間というふうに受け取りました。また、会員さんから言わせると、「雲の上の人で、私たちが声をかけて話ができるような人ではありません」というような印象だったようです。何とか彼とコンタクトが取れないかということで、何人かの会員さんが呼びかけはしてくれたようです。しかし、まったく反応が返ってこないという状況でした。

それから10年が経ち、昨年の11月15日に初めてヤマギシの村人が木の花を訪れるに至ったのです。(私が村人でそれまで出会ったのは望三郎くんと彼と一緒に来た二人の男の子だけで、それ以外で村人に会ったことがありませんでした。)それから、よりどんと寛ちゃんという実質的にヤマギシのトップがここに来ました。二人と話をしたときに、「こういう特殊な生き方をしているもの同士として色々と苦労がありますよね」という話をしました。そのときに、「木の花さんの苦労は、私たちの苦労に比べたら小さいですよ。ただ、これが100人、200人になったら、ヤマギシの苦労もそのうちわかるでしょう」と言うので、「それはわかりませんよ。なぜなら、ヤマギシが先にあるということは良いにしろ悪いにしろ見本であり、それを私たちは無駄にしないからです。ヤマギシの轍を私たちは踏みません。それよりも、私は10年も前からあなたたちにラブコールを送っていましたが、その反応が返ってきませんでした。ということは、あなたたちがすべて正しくて、他者は受け入れない。全人幸福と謳っているわりには排他的な世界をつくり、批判を受けることになって、それで警戒心が強くなっているのかもしれませんが、私たちはあなたたちの追い風です。追い風と言っても、変わりもの同士で理念が合うから、と自分たちのために手を取り合っていくのではなく、やはり世の中に理想をもたらすための追い風でありたい。ヤマギシ、木の花を抜きにして、世の中で理想が成っていくときに、それをやりきったものとして見本となっていけば、それがヤマギシの価値であり、私たちの価値になります。そういう意味で、結果として追い風になるということですよ」と話をしました。二人は大変共鳴してくれました。その気持ちに私たちは今でも変わりはありません。

ところが、1年前に話し合ったその共鳴は、1年を振り返ってみると、ヤマギシにとっての都合の良い出会いにしたいところがあり、本当の全人幸福のための出会いには今のところ育っていません。ヤマギシズムに目覚めていないヤマギシの体質が見えてきました。個々の人たちには共鳴している人たちが多くいますが、その人たちもまだまだ世界観が狭いのです。だから、個々の人たちでヤマギシの体制に対して批判的な人たちの中には、自分が生き辛いから批判的になって、木の花と共鳴している人もいるのです。それから、自分は今のままで良いと思っているから外のことはどうでもいい、だから木の花について無関心だったり、批判的になっている人もいます。さらに、リーダー的な人はどうなのかというと、現状のヤマギシに対してこれではいけないという賢明な発想を持っているからこそ、木の花から色々と刺激をもらいながら、ヤマギシを本来の姿に改革していこうとしている人もいます。しかし、ヤマギシを自分たちの都合良く保っていきたいから、都合の悪い人を全体のために動く人にしてもらい、ヤマギシの体制づくりに利用したいという人もいます。それぞれの思惑の中で動いているのですが、残念ながら青本の一番大きな看板である「全人幸福」を意識して日々を生きている人はほとんどいません。私としては木の花においでになる人たちに対して、引きこもっている人や鬱病の人など優先順位が高い人から声をかけているのですが、その最終的な目的はひとりひとりを健康にすることです。ヤマギシズムは高い理想のもとにあるのですが、その解釈が違っていると、現実がそれに伴ってこないことになります。霊的に私が山岸さんの存在を感じてみても、青本の表現からしても、山岸さんの個性は隋所に表れていますが、目的は私たちと同じです。イズムでも法華経でも、世の中に全人幸福をもたらすための精神を広げていければ何でもいいのです。世の中にオールメンバーを広げていく、村から町へ、というのも考えとしては立派ですが、現実が伴っていなければ意味がありません。

そういったことを日々誰もが意識して暮らしながら、外とのネットワークの中にもヤマギシズムがあるという意味では、木の花と出会うということは大きな意味があります。大人会議に参加していただけばわかると思うのですが、私たちが一日一日をいかに大事に生きているか。そういったことからしたら、私はよく一般社会の人やここの子供たちにも伝えるのですが、携帯電話が欲しい、ゲームがやりたいと生きていくことはいいけれど、ただ感情を垂れ流しのように出るに任せて一日が終わってしまった、1ヶ月が経ってしまった、1年が経ってしまった、10年が経ってしまったでは生きている意味を忘れてしまっている状態です。それは自分を磨くとか、この世界のために自分が生かされているとか、それが本当の大事に目覚めるということですが、我執にとらわれてしまい、我執の流れに溺れている状態なのです。「それではダメだよ」と私は子どもたちにも伝えます。ところが、ヤマギシの村人を見ていると、そういう人たちが沢山いるのです。あの高い理想のイズムに共鳴して参画したという意識は、どこへ行ってしまっているのでしょう。それどころか、そんなことは忘れて外で生きていくことに自信がないから、ヤマギシでだったら不満を持っていても、多少不自由でもぬるま湯だから、というような人まで現われてくるようになっているのです。「そういった人も含めてみんなが暮らせていければ、それもある意味社会の見本だ」とある人は言うのです。しかし、それは全人幸福という理想の看板からしたら、見本にも何にもなりません。山岸さんは、ヤマギシが世の中のモデルとなって、時代が理想になっていくための推進役としての位置づけや村人の立ち位置を示したはずです。ところが、意識があろうがなかろうが、ただ飯が食べていければいいということになれば、産業が優先されるばかりになりますから、イズムの理念はどこかに行ってしまいます。そういう大人たちが研鑽学校や特講に人を集めたとしても、若い人たちにイズムが定着していかないことになります。ただ、親がやっていたからそこに残っているだけになります。ですから、意識の高い若者の多くは外に出て行ってしまうのです。新しい時代に沿って扉を開こうとする人たちは出ていくことになります。そうすると、残るのは親がいるからとか、食べていけるからとか、そういう意識の人が多くなってしまいます。そういう意識から脱却できない人たちにイズムを受け継がせるというようなことでは、とても新しい風が吹いて、全人幸福のための実践の場は現われてきません。

私の中にはそういったヤマギシの現実と出会って、どこかいらだたしい心があります。反応が鈍いというか、覚悟がないというか、往生際が悪いというか。しかし、それも私自身の人間性からしたら、そんなところでいらだつような人間ではいけないものですから、そこではしっかりと自らをチェックします。そのいらだたしいという心は自分のスタンスを優先して、ヤマギシというスタンスを尊重していないということですから。私たちは押しつけはしません。縁があったのだから、縁があったように情報を伝えて刺激役に徹します。みなさんの歩みを尊重しますというスタンスを常に取っていますし、現実にそういう姿勢でいるわけです。しかし、だからといって、鬱病や引きこもりの人たちのように、「あなたのペースでいいですよ」とそのまま任せておいたら、ずっとその人のペースになってしまい、それで10年も20年も不健全な状態でいくわけですから、時には刺激を与えたり、「それではダメですよ」と伝えもします。そういう意味でも、ヤマギシと木の花は縁があったわけです。いわば引きこもりなのか鬱病なのか、それとも病気は出ていないがへそ曲がりで人間関係が難しいのか。人間の肉体的な病気で例えれば、ヤマギシはある意味糖尿病みたいなものです。精神的な意味でも、肉体的な意味でも、病んでいる状態です。自らが病気であるという認識は少しはあるかもしれませんが、それに対してしっかりと対処していこうという意識が足りない、だらしのない状態です。ただ、心を病んでいるとしたら、病んでいる分だけ意識は高いとも言えます。心を病むほど、そこに向ける意識があるのですから。それから、体が病むほど豊かであるとも言えます。ある意味、ぜいたく病ですから。そういうことに自覚を持って目覚めてもらいたいと思います。ヤマギシと接するということは、アル中やニコチン中毒、引きこもりや鬱病の傾向のある人と接しているようなものですが、個人と接するよりヤマギシの中には色々な人がいるものですから複雑になってくるという状態です。それについては、私がこういった話を投げかけて共鳴する人もいれば、そうでない人もいて、時間もかかるのでしょう。では、今何が必要なのか、と考えたときに、その人たちが己の本来の健康の仕組みを持っているのに、それを忘れていたり実践しないでいるということですから、こちらの概念を押しつけずに関わりながら、どのように自らの本分に目覚めていくのか、という役割をさせていただいているのだと思っています。これは長期ケアプログラムのようなものです。そのために、ひとりひとり出会った人に、「何のためにヤマギシの生活を村人としてやっているのですか。もともとあなたはどうして参画したのですか。あなたの中にイズムに共鳴して高揚したときがあったはずです。しかし、それはもう色あせてしまって『私には関係ない』ということなのですか。それなら、あなたは何のために色あせてしまった日々を過ごしているのですか」と問いかけるのです。

人間本来生命ですから、生き生きと活性しながら日々を生きていくことが健康ということです。活性するということは、古いものを捨て新しいものを取り入れ、常に変化し進化し続けるということです。「生」き生きと「活」性するということが「生活」というものであり、日々のいのちの姿です。それが本当の宇宙生命として顕現した人の在り方なのです。宇宙は大調和で成り立っていますから、他者とつながり、「あなたは私 私はあなた」と自他を区別しないということです。そこでは我執が消えてしまった菩提心、慈悲の心、キリスト教で言う愛が表現されることが、本来のヤマギシズムの村人としてあるべき姿なのではないでしょうか。それが一部分の人たちに操られているようなことでは、不健康体を生きることになります。ひとりひとりが全体の細胞ですから、その細胞一個一個が健康になり、そのネットワークが実顕地でありヤマギシという村であるのです。地球上にあるひとつひとつの細胞はつながり、とても重要な役割を果たしています。特に人間という細胞は、他の生命よりも全体に対して影響が大きいのです。場合によっては、人間というものは両刃の剣であり、優秀であるがゆえに問題の発生源にもなってしまうのです。今の人間は地球にとってガン細胞状態であるとも言えるのです。しかし、私たちは元々正常細胞であり、生命の単体としては地球のリーダーなのです。他の生命が健康でいられるためのリーダーシップをとるべきものが、今ガン細胞化しているのです。そのリーダーシップのひとつの見本として、ヤマギシズムという仕組みや村人という一個一個の独立した意志であり、それが菩提心を持ったオールメンバーということです。そういうことに本来共鳴したからこそ参画していたことをひとりひとり思い出してもらい、村の中で目覚めの人たちのネットワークを構築して村が変わっていくことが今、求められているのではないでしょうか。

ヤマギシズム一体生活の場は主権在民であり、民主主義の場であるべきです。ところが、時々民主主義の場を感じられないことがあります。多面的には民主主義だというのですが、一部の民衆が腐ってしまって不満分子になり、閉塞感すら感じられる人がいます。(ヤマギシの村人の中には、自分のことを平民と言う人もいます。)その不満の人たちに目覚めてもらい、そのネットワークを構築していくことが大切なのです。民衆の心が離れた組織や国家は絶対に成り立ちません。そうすると、民衆が蜂起し、ひとりひとりが目覚めることが健康になるコツなのです。アラブの春という革命が今年ありましたが、今、時代が変わっていく流れにあるのです。マヤの暦が来年終わり、次の新しい暦(地球暦)が生まれて来ているぐらいの時代ですから、リーマンショックや震災、原発事故や世界的な金融システムも今、崩壊しようとしています。そして、エネルギー革命も今、起きようとしています。国内のみならず世界中で色々な革命が起きようとしているときに、50年も前に先人としてヤマギシズムの旗を持って先頭を切った人たちが、今頃になって本分を忘れているようではいけません。みなさんがやっと世の中の見本となれる、あなたたちの時代が来ようとしているときに、その波に間に合わないようなことでは本末転倒です。うさぎと亀でいったら、うさぎのようなものです。早く走り出したかもしれませんが、自分たちだけが優秀で余裕があるからといって、そこで寝ていたら、世の中に追い抜かれてしまいます。「ヤマギシの人たちは、まだそんなことをやっているのですか?」と逆に世の中から言われることになりそうではありませんか。

今、どちらかというと腐って批判的な人たちがヤマギシの中にはいます。腐っている人たちは興味がない、批判的である、そしてヤマギシの中に希望を見出せない人たちです。しかし、その人たちがなぜそのようになってしまったのかといえば、ヤマギシの中に理想を見出せないからです。さらに、見出せないどころか、そこにいなければいけない事情があるのです。縁であり、その人の個人的な問題も色々とあり、そこにいないといけないときに余計腐っていくのです。自分が村にいながらにして村を腐らせている元になるのか、意識が変わり当初の精神に戻ることができれば、これは新しい風を吹かせる元にもなるわけです。その人たちが意識革命を起こすことによって、体制は必ず変わっていくのですが、そのことにみんなが気づいていません。それは希望がないからです。横のネットワークがないからです。ですから、私は木の花を訪れる人たち、特に「本当のことを言うとね、いさどん。村の中では言えないけれど、内情はこうなんです」と言う人たちには、「そうすると、あなたは普段本当のことを言わないで生活しているのですか。それが仲良し社会なのですか」と問います。そして、「まずは自分から目覚めましょう。勇気を持って本当のことを言う人になり、それを言っていくことによって共鳴する人たちが集い、ネットワークが構築され、本当がまかり通る、何でも言い合える、そしてみんなが納得できる世界をつくっていきましょう。何だかわからないところで、個人的に影響を与えているもののせいにしないことです。そういった空気があること自体、それもあなたたちのせいなのですから。それは互いのせいであるということです」とひとりひとりに伝えていくことが私の役割だと思ってやってきました。

私は今まで村人に対して色々なアプローチをしてきました。その際、ヤマギシの中でどちらかというと影響力の大きい人たちにもアプローチしましたが、まったく影響力がなくて卑屈になっている「平民」と言われる人たちにもこまめにアプローチしてきました。今ここまでを振り返ってみると、影響力のある人たちは共鳴するとすごく大きな力になるのですが、そういった立場の人たちのほうがヤマギシを所有しています。ヤマギシズムというのは、まず全人幸福、一体社会、無所有です。それが三種の神器のようなものです。そうすると、このヤマギシズムの三本の柱はどの柱も立っていません。無所有と言いながらこれほど所有している矛盾を抱えた世界は、一般社会でもなかなかありません。そのためには、影響の大きな中心的立場にいる人たちに対して、平民と言われる村人たちが目覚めて、そのネットワークの中から今までの苦労をねぎらい、「これまでは私たちがあなたたちをそのような形で必要としてきましたが、これからはみんなでやっていきますから、あなたたちもひとりの村人としての立場に立ってください」と提案する必要があります。みんなの無関心が、そういう人たちをその立場に置いているわけですから。少し時間はかかるかもしれませんが、勇気を持ってやっていくことです。確実なのはひとりひとりがそのことに目覚めていくことです。

こういった内容をヤマギシの誰と共鳴するのかというと、こうやって出会ったひとりひとりにそのことを根気よく伝えていくことが大切だと思うのです。そうやって、時代と共に社会も変わっていくのです。私が愛しているヤマギシに私が執着してこういった話をしているように聞こえるかもしれませんが、そうではありません。真理というものが世の中に開かれるためには、それにふさわしい道をもらっているところがそれにふさわしく見本となっていくことが大切です。時代は変わらないといけませんし、変化していくものです。変革の波が今、色々な形で大きな津波となって押し寄せてきています。それに対して何をモデルとして進んだらいいのか、となったときにヤマギシズムの中にその大事はしっかりとありますし、木の花の生き方の中にもあります。そこのところにみんなが気づいてくれるかどうか、というのが私が今考えていることです。ヤマギシの目覚めはヤマギシの歩みに任せるとしても、目覚めないからといって知らないというのではなく、いただいた縁の分だけはやりきりたいと思っています。気が長いところは長いように、短いところは短いように、付き合わせてもらっています。

私がある人と出会ったときに、「この人は村の中にいながら、ヤマギシに対してこれだけの不満や反発がある。しかし、この人の中にあるエネルギーを本来の目的に向けることによって、本人のためにも村のためにも有効なものになる。しかし、それが村に対して不満を言うだけであるならば、ヤマギシズムから外れて『あなたは私、私はあなた』の一体になっていない」と思いました。そういった人をヤマギシではどのように扱ってきたかというと、それこそそんな人は研鑽学校に行ってもらい、村の都合の良い人にして、村を運営しやすくすればいいということになります。結局、今は研鑽学校がある意味そういうところにもなっているのです。だから、研鑽学校に行けば全体ではなく自分のほうに心を向けさせて、体制の問題には批判的にならないように利用していることにもなります。そういった人の多くは、研鑽学校に行くことを拒否する人もいます。しかし、そういう方法ではなく、恐れずに全体の批判をどんどん出して、問題事を総括していかなければなりません。今のままでは風通しの良い場所ではありません。一部の個人は、研鑽学校に行って気分が良くなるからそれで良くなったと思うようですが、その賞味期限は短いようです。ですから、また元に戻るようなことになってしまいます。そういう構造がヤマギシの中にあることをまず、村人が気づかなくてはいけません。それには外からの目線を取り入れることが大切です。私はそういう人たちに気づいてもらう役割ということで、投げかける立場だと思っています。

ここを1泊2日で訪れたり、中には様子見ということで日帰りで来る人もいますが、それではここの本当はわかりません。2泊3日や3泊4日でもわかりきれませんが、こうやって何回も時間を持つことによって少しずつ理解が深まっていきます。私がヤマギシに対してどれほどの情熱を持っているのか。それはオールメンバーどころか、山岸さんと同じ気持ちでヤマギシのことを見ています。ところが、ヤマギシの人たちはそのことがよくわかっていないのです。自分たちにイズムの意識が足りないということがわからないのです。ここでは「意識の足りない木の花は解散する」と言います。もし私がヤマギシの村人であるならば、大改革を提案するか、それとも解散を提案します。何だかわけのわからない社会の中にいて、不満を言いながらそこに居続ける人たちが何なのかは知りませんが、その人生に何の意味があるのでしょう。この言葉は私たち流に表現すると、「神の計らい」ということになるのです。こうやって出会いをいただき、その役割を果たしながら、ヤマギシに対してというよりも、神様の意志をいただいて神に対してお応えしているということなのです。今朝、そのようなことをみなさんにお伝えしたいと考えていました。

あなたのエネルギーを向ける方向を、ぜひイズム復活のために、世のために「私意尊重公意行」でやっていってもらいたいと思います。そういったものを実際の生活の中でみんなが定着させていくようにしてもらいたいと思います。それは牛に対しても豚に対しても、日々の生活に対しても、大切なのは善意や愛、調和の精神です。それがベースにあるからこそ、健康な産業が育っていくものなのです。養鶏法と言いますが、世の中にすべての実態をあからさまにできないようではいけません。現実には牛や豚の問題でも隠しながら産業優先でやっているわけです。物事の奥にある大事な精神性を反映させていないというのは、ひとえにイズムが浸透していない表れです。こういった実態を通して山岸さんは、「情けない話だが、イズムはそこにはない」と私に言われます。もし今、山岸さんが生きていれば、みんな謙虚に山岸さんの言葉を聞くだろうと思うのです。私が言う言葉だって、山岸さんの言葉と同じです。真理は誰からでも出てくるものです。そういう真理の匂いを嗅いで、やはりそのもとに生きていこうとするのが参画した人たちの本来の目的であり、喜びであるはずです。それが道を歩み出した人々の責務なのです。それが高い精神というものであり、そこまで到達すると、青本で言われるオールメンバーという人たちです。それを仏教では菩提心を持った菩薩、ブッダと言います。表現の仕方は違いますが、同じことを言っています。ただ、今のヤマギシと木の花では実態は違うのです。木の花では未熟ながら、まさしくそれを日々理解しようと努めています。そして、それを生活の中に落とそうと日々専念しているのです。しかし、ヤマギシの人々はそのことを忘れていました。私はここの高校生たちに「日々をだらだら生きていたら、だらだら依存症だよ。ゲームをやり続けて、それで当たり前に毎日が過ぎていったら、それはゲーム依存症だよ」と言います。アルコールでもタバコでも何でもそうですが、依存症になってしまってはいけません。それを自分でコントロールし、健全に表現できて初めて健康につながるのです。それが全体に生かされて組織の健康になり、社会の健康になるのです。すべての人間が他者と自分を区別せずに健全につながることによって、地球の健康があるのです。私たちは人類として、それを担う立場にいるのです。

これをヤマギシとの出会いの1年の区切りにして、新しい年に向けてヤマギシの人たちに目覚めてもらうための投げかけにしたいと思います。

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ダイナミックに生きるとは?

2011 年 8 月 8 日 ようこ コメント 2 件

いさどん:人は目的を見つけると、目的を達成したいと思う自分とそれをやれないと思う自分が同時に存在することがある。そういった制限する自分をとっぱらうと、その人にとって新しい世界に出会う。それをとっぱらうことによって得られる快感を味わうことになる。しかし、とっぱらうことが苦痛になり、自分を守るようではそれを味わえない。ここ数日、自分でも少し感じるのは、思考が上手くまわらない。

ようこ:それはピトピが色々と変化しているからじゃないかな。昨日の夜、いさどんが大人会議に出るのをやめようかなと言ったじゃない?だから、寝る前に上の存在はどう感じているのかと思いを馳せていたら、上の存在は変化を観たいんだよね。例えば、面談でいさどんが相談者に語りかけることによって相談者の心がどんどん変化していくこと。大人会議の宇宙図書館でいさどんが皆の枠を超えた話を引き出されて語ることによって皆が変化していくことを、上の存在は観ている。それがいさどんが生かされ、皆が成長していくこと。

いさどん:それは確かにそうだね。それは今の宇宙の構造だから。もともとこの宇宙は全く変化しない世界だった。そこでは自分の存在すら感じられない、そこにあることが感じられない世界。変化することによって存在を感じられることになる。過去から未来へ、こちらからあちらへというふうに、これは全て変化だよね。変化を感じられるからこそ、自分という存在を確認できる。他者を感じるから、自分という存在を確認できる。

ようこ:そうそう、違いによってね。

いさどん:それで、地球を離れた外の世界をずっと観ていくと、変化しているようでほとんど変化していない。私たちの時間基準からいったら、極端に長い時間を表現している。ここの3次元世界だけを認識している人間にとって、その世界は安定しているように思えるかもしれないが、そこには何の基準もない。そこでは自分の存在をはかれない状態で、ただ、循環があるだけ。その約束されたサイクルの中で変化する。瞬間瞬間から、1時間、1日、1カ月、1年、人間でいったら一生、そういうサイクルを創っているにすぎない。私たちのいる地上では、そういった巨大な宇宙の縮小版を表現していることになる。私たちはその縮小された場所を舞台として、そこに立っている。そのカラクリを知っているものと知らないものと色々といる。それから、それを創った側のものたちがいて、私たちを観察している。それは知っているものの立場として観察しているものと、知らなくて観察しているものの両方が存在している。

ようこ:そうそう、私たちと一緒にカラクリを学びながら「なるほど」と感じているものたちと、私たちがカラクリに気づいていく様子を見ながら、さらに私たちがカラクリに気づいていけるように次なる現象を創り出していくものたちがいる。

いさどん:私たちを導いているものたちということになるのか。ようこちゃんが上の存在に心を向けるようになって、そこへ周波数を合わせる能力が高くなったから、そういった意志を受け取るようになった。ただ、ようこちゃんが受け取ったものをそのままようこちゃんが話しても、皆がぽかんとするから、それを僕が人間レベルの周波数に合わせて通訳すると、より皆が理解できる。

ようこ:私の中ではそれがあまりにも明快だから、そのまま話すことしかできないんだよね。

いさどん:その明快さは、特定の人にしか理解できない明快さだから。

ようこ:それを体験した人とか、想像できる人とかね。以前は無意識にそういう世界に行っていたけれど、今は自分で周波数を変えながら、今は地上よりにして大人会議でコメントする側になろうとか、今は上よりにして宇宙に情報を発信する媒体になりきろうとか楽しんでいる。

いさどん:瞬間瞬間変化する世界。その変化を恐れない。最初の話に戻るけど、ひとりひとり自分というものがあるでしょ。本来この世界はまったく立ち止まることがない、変化する世界。そこには特定した自分がないということが真実なのである。それが自我というものを持ったがために自分を守ろうとする力が働いて、変化することを恐怖に感じてしまう。だから、守ろうとする。しかし、実際には変化させようとする出来事が起こるのだから、守ろうとする心が実際に起こる出来事に対して恐怖を感じる。その恐怖を感じる基準はそれぞれにあって、ほんの少しの変化でも恐怖に感じる人もいれば、沢山変わってもそんなに恐怖を感じない人もいる。さらに、自分流に変化したいと思う人もいれば、自分自身の変化を喜びに感じている人もいる。変化をすることを恐れず楽しめる状態になったときに、この宇宙全体の大きな構造、変化していく世界を創った目的に沿っていることになる。しかし、その流れに抵抗するというのも、変化することを味わうためのプロセスである。だから、あるところから観ると、すべてが楽しみだという世界。そういったカラクリに気づいたものは、それに翻弄されずに楽しむ側に立つことができる。それに気づかないものは創られた側にいる。創った側と創られた側。それは構造的には本来区別がつかないものであるが。

自然を観ると、土、バクテリア、植物、動物、そこにありとありとあらゆる生命が絡んで、形を変えながら循環している。それ自体が変化する世界にあるけれど、そこから広く視点を離れて宇宙のサイクルで捉えると、その循環をぐるぐると繰り返しているだけで全く変化していないことにもなる。それが太陽系、銀河の構造。小さい視点で捉えると、形状が変わって変化しているように見えるが、それをもっと大きな視点で捉えると、ただのサイクルの一部にしかすぎないのである。ただ、そのサイクルも今が何サイクル目かとカウントしながら進んでいると考えると、変化しているということでもある。そういう太陽系や銀河のようなスタイルを細胞のようにして集合させている宇宙全体があって、そこには意志がある。その意志は一体何を表現したいのか?しかし、それはただそこにあるだけである。僕はその意志をつかもうとしたのだけれど、それをつかまえる必要はない。それがあってあるもの。そして、その意志はつかまえられない。なきてなきものである。

ようこ:そのカラクリに気づくと、上とつながって、変化も何でも楽しめる。

いさどん:そこで、視点をずっと身近なところに持ってきて、人間が自身に執着している状態を星のスケールで捉えると、星にも意志があって自分を認識しようと思ったときに、星にも我があって、こういう姿になりたいと思う心があるだろう。

ようこ:あるだろうね。違いや個性を我とも言えるしね。

いさどん:そして、それを願う星の魂が地球上に現れたことになる。僕はここ数日の自分に対して不満足だった。それは皆に自分の想いを上手く伝えられないことに対してのいらだちがあった。それはひとりひとりがその人にふさわしい歩みをしているときに、他の人が「これはこういうことだよ」とヒントを与えることはできても、その人に代わってあげることはできない。材料を提供するだけなのに、詳しく伝えようとする心が働くと、不満足が発生する。僕は今、そのことを感じたから、早速修正している。

ようこ:上の存在からすると、いさどんが言葉で上手く伝えようが伝えまいがそれはささいなことで、いさどんが揺るがない心をベースに人の変化、成長を促す存在としてここにいることが意味があることだから。

いさどん:変化するということには秩序というベースがないといけない。つまり、揺るがないという秩序を持って変化をしないと、単なる不安定になってしまう。揺るがない状態がベースにあるからこそ、安定して変化するということができる。変化しない状態を保ちながら変化するということが大切。それが先日大人会議で語った確信の話。しかし、多くの人には確信の話がまだまだ確信にならない。

ようこ:私は今朝いさどんと話をするまでは、いさどんの大きな役割は揺るがない、ぶれないことだと感じていたけれど、今こうやって話しながら、それプラス、いさどんは誰よりも皆に変化することを促す存在だと改めて知った。そのふたつは表裏一体のものだよね。

いさどん:ぶれないことは変化するベースにあるのだからね。例えば、心のシェアで「こんな失敗をしました。こうこうこういうことで反省しました」と言うとする。そこでどうアドバイスするのかというときに、そう思ったのであればそれをやめたらいい、とたったそれだけのこと。そうやってとらわれない変化をすればいい。

今もこのように難しく考えて、頭の中で思考を展開させているでしょ。物理的に形を持っているものにとっては、ただ話しているだけに見えるのだけれど、それは気づきというものを得ながら大きな魂の変化を伴っているわけだ。それを上の存在は観ている。そうすると、何も変化していないようで、これは大きな変化をしていてダイナミックな世界であることがわかる。逆に、ここのとらわれ世界で右往左往したり迷いの行動をしていたとしても、それは全く変化していない世界ということにもなる。人間たちは形にばかりとらわれて、変化しないものが多い。「何のためにおまえたちはその形を取っておるのじゃ?」と問われることになる。その目的は、形にももちろんあるのであるが、形の奥にある心の変化を表現することが一番大切なことなのである。それでは悟れない。

ようこ:悟りは境地ではなくて、変化し続けること。

いさどん:そう。変化し続ける中に身を置いて、変化し続けるものになりきるということに意味がある。昔、僕が神様にこんな質問をしたことがある。「この世界には法則があり、それに基づく仕組みがあります。どんなものにも存在する限り、目的があるのですか。この世界の存在する目的は何なのでしょうか」と問いかけた。すると、「その質問は私には答えられない。それは宇宙根源を司る神の意志である」と言われた。そこで僕は、「えっ、神様でも答えられないことがあるのですか?」と問うたら、「そなたは神を完全と思うておるのか」と言われた。それで、「神様が完全ではないとしたら、私は何を持って完全を求めていけばいいのでしょうか?」と聞いた。そうしたら、「神とて完全なるものはひとりもいないのである。神とは学び変化し続けるものである」と言われた。それで、「それでは私は不完全である神様の道をいただきながら、学び続けていけばいいわけなのか」と思った。その時に、神というのは絶対で不動なものであると思っていたから拍子抜けしたのを覚えている。完全なものがあるからこそ、その完全を目指して行くという希望が湧く。ところが、のれんに腕押しみたいな答えが返ってきたのである。でも、それが最終の回答、完全な答えなのだと思う。つまり、神の実態(この世界)は変化し続けるもので、特定できないものなのである。これは今から20年も前のことだった。これは自分の中では十分に理解していなかったけれど、今、それがわかった。あの神様はすべての中心の神ではなくて、ある特定の位置から出てきた神様で、こちらが問うたことに対して答えるのに少し苦痛が感じられた(ようこ、笑)。それは問うたものに対して答えたいという意志と、自らが途上のものであって答えられないという苦痛があったように思う。なんとなく今の自分の気持ちと重なる(笑)。あの時に問われた神様の気持ちは、今の自分の気持ちと同じだ!あーあ、ちょっと楽になった。

ようこ:面白いね(笑)。

いさどん:やっぱり責任感があって、答えなければ、そして問うものがあればそのものに回答を出さなければという思いがあって、その立場に立っていた。それでは楽しめない。無限の知恵の泉からは、場合によっては皆が理解できない知恵も湧き出してくる。だから、説明できないものもあるということを認めればいい。その知恵の全てはまだ理解できていない。しかし、数日前からの自分の思いに対しても、こうやってちゃんと答えが出てくる。結局、おさまるところにおさまる。

ようこ:いさどんと他の人との変化の仕方の違いは、いさどんはこうやって話しながら気持ちを整理しておさめていく。そうやって変化していくのは特異なことだから、それは上の存在たちにとっても興味深いところだよね。他の人だと、色々な人との心と心が刺激し合って活性して変化していくのだけれど、いさどんは自己完結型で自分で語って、私はそれを隣で聞いているだけ。私はいさどんを導いているわけでも、何か思惑を持っているわけでもない。ただ思ったことを言っているだけ。

いさどん:星は宇宙の中でそうやって自己完結している。しかし、それはダイナミックではない。星という存在のスケールはダイナミックだけれど。それが小さなバクテリアの世界のようなこの地球上の世界に来て、ここはスケールは小さいけれど、その変化をすごくダイナミックに表現し味わうことができる。

ようこ:そう、変化は激しい。

いさどん:そこだよ。それが星々が地球上に降りてきたがる要素。

ようこ:いさどんなんて変化が激しい典型だよね。どんどん変化していくから、実態がつかめない。まさに宇宙の仕組みそのまま。

いさどん:ヤマギシの人たちにも色々なタイプがあって、変化しないで守ろうとする人たちと、変化を求めて「変化しようよ!」と言っている人たちがいる。変化している世界にいながら、今までは守ろうとする力のほうが強かった。しかし今、変化の時代が来て、それに抵抗している人たちと進めていきたい人たちがいる。そうすると、変化はどちらのほうから始まるのかというと、陰性の流れから始まる。陽性の流れの人たちは「自分が」「自分流」というのが強い。それに対して、陰性の流れの人たちは「取り入れる」「引き込む」という力。そうすると、陰性の人たちのほうが変わらない力に対して被害者意識のようなものを持ちながら、変わる力を働かせる。普通、陽性のほうが先に動くように思うけれど、それは自己流に動く力であるから変化は少ないことになる。陰性は引き込む力だから、相手の存在を取り入れて変化する。それは本質的な変化につながる。

ようこ:そうだね、新しいものが入るから。

いさどん:そう。だから、人間たちはとかく勘違いしている。自分にとって都合良く変化するのを変化だと思っているけれど、自分にとって都合が悪いものを受け取ることによって変化するのが変化。それが陰性の変化と陽性の変化の違い。

ようこ:そうだね、陽性の変化は実は変化していない。根本的な変化じゃないということだね。

いさどん:うつに対しても、陰性うつと陽性うつというものがある。陰性うつの場合、陰性タイプの人は自分という意識が少ないから、それは欲しいという気持ちが満たされないということ。それに対して、陽性タイプの人は「自分がやりたい」という願望が強くあって、それを進めていくときに、欲求が強いと適度ということを忘れて強く進めすぎてしまうことになる。進めすぎてしまった分のギャップに問題が発生して、その問題が発生する痛みを味わうことによってブレーキがかかる。それが続くとそのブレーキが恐怖となり、痛みが繰り返されると、事を進めていこうとするときに痛みのイメージが先に来てしまって進めなくなるという状態。だから、陽性でも陰性でも進めなくなるということが起きる。進めなくなるというのは変化できないという状態。変化しないということは、この宇宙の根本的な法則から外れるということになる。この宇宙の根本が変化をもとにしているということは、陰性が根本なんだよ。陰性というのは形ではなくて、この形の世界を司っている法則であり、心のこと。だから、この世界の基本は心ということになる。無(陰性)から有が生まれる。観えない心から現象が現れる。その繰り返しが宇宙の実態である。

ようこ:いさどんは心の変化を促す役割をしているから、変化を恐れている人はいさどんを恐怖に感じる場合があるよね。

いさどん:「いさどんには心を見透かされそうだ」とかね。

ようこ:変化を楽しむ人は見透かされることが嬉しいもんね。でも、変化を恐れるということもこの仕組みの中に入っているんだよね。

いさどん:そう。だから、恐れることも正常なんだよ。恐れるからこそ、バネのように、弓のようにしなって、そして抵抗すればするほど、一気に変化する世界を創る。そうやって、どんどん変化していくことがダイナミックに生きるということである。

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心の中に種がある

2011 年 8 月 5 日 ようこ コメント 1 件

昨年の9月から3ヶ月半ケア滞在をしたゆかりちゃん。今年の1月からは一般滞在に切り替え、4月からはここに滞在しながらアルバイトもするようになりました。そんなゆかりちゃんが、6年前に統合失調症に至った経緯から現在の心境までを振り返り、以下のようなケア滞在記を書いてくれました。(なお、いさどんブログ「Yちゃんケア開始2ヶ月後の面談に同席して」には、ゆかりちゃんのケア途中経過の模様が記されています。)

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木の花ケア滞在記「心の中に種がある~三ヶ月半のケア体験を振り返って~」

木の花ファミリーを知ったのは、一昨年の夏のテレビ番組「自給自足物語」でした。その風景では、明るく楽しそうな食卓と、ダジャレを言ってるおじさんが印象的だったのです。その後HPがあることを知り、「おやじの館」などのブログをたまに見ていました。
 
当時私は統合失調症(二重人格)で、仕事(飲食店のアルバイト)をしていましたが、幻聴、幻覚、幻触に悩まされる日々でした。そして、その年の暮れに症状が悪化し、体のコントロールが完全に利かなくなり、仕事を辞めざるをえなくなってしまいました。精神科の病院に通院し、薬をもらいながらカウンセリングにも通っていましたが、症状はよくならず、どうしたらいいか考えていたのです。そんな日々を過ごしているうちに自殺願望が強くなり、それを病院の先生に打ち明けると「精神病院に入院しなさい」と言われ、それを拒んで、思い切ってこの木の花ファミリーでケア滞在をしてみようと思い立ったのでした。
 
そして、昨年の五月の初旬に体験ツアーで訪れ、いさどんと面談をしました。その時に「あなたは二重人格で嘘つきだね」と言われ、その通りだったので「この人本物だ、この人はすごい、この人を信じてここでやってみよう」と思い、9月16日からケアでの滞在をスタートさせました。
 
最初の頃、私は幻聴がひどく罵詈雑言を言っていることや、体の中が突っ張った感じがひどくあって、体のコントロールが自由に利かない、日常生活が送りにくいという状態でした。それは、山羊さんのお世話を一緒にしていたチナッピーの話を十分に聞けない、通常の意識すら保てない状態でした。また、心の方も硬く、緊張、不安もあって、当時の私を見て「暗いねー」と表現した人もいました。しかし、一緒に生活をするようになって徐々に硬さがとれてきて、リラックスする方法を自分で考えたり、自宅で過ごしていた時のように音楽を聴くという方法をとったりしました。断薬については、多分滞在一週間ぐらいから徐々に減らしていき、十日後位には最後に残していた統合失調症の薬も飲まなくなっていました。
 
滞在の日々の中では、自分を知る自己認識の作業を徐々にしていきました。面談の中でも言われましたが、私は自意識が強い。だから、自分の癖を認めにくい。そういう自分をとにかく知っていくことをやっていきました。初期の日記では、病気の症状のことばかりが記されていましたが、次第に自分はこういうふうに感じているという表現に代わり、いさどんからのアドバイス通り冷静で客観的な自分の目線を増やして、自分を有効に使う努力をしていくことに努めました。
 
それから、過去のトラウマの自己分析をする課題については、なかなか取り組めませんでした。自意識の強い私は、自分の非を認めたくない、他者からのアドバイスをなかなか受け取らない為に、そのテーマは進みませんでした。それは自己防衛本能が働いていたからのように思います。また自分を振り返っても、自分を客観的に観る精度が荒いということもありました。徐々に自己防衛をやめ、内省の精度が高まった段階で、いさどんとの面談で二重人格になった経緯を伝えられました。それは、幼い頃よりの習慣、感情の抑圧という癖で、特に就職という出来事の中で感情を抑圧しすぎてしまい、その抑えていた感情が自分の手を離れて暴走し、コントロールが出来なくなってしまい、現実逃避の果てに別の人格を作ってしまったということでした。いさどんがそれを解明したのは、私の中で周りや環境のせいにするのではなく、私の心の中に私が病気となる原因を作った種があることに気付いた頃でした。

私が思うもう一つの心の病気の種は、私が傲慢であることです。滞在して二ヶ月半後の日記にはこのように記してあります。「私は就職してから、ほぼ毎日自分の心をよく振り返ってチェックしていた。でも、傲慢になるにつれてしなくなった。それが原因だと思う。自分には足りない、出来てないと思う心が必要だったと思う」とあります。私には、家族や職場の皆に支えられて生きている事に感謝して、謙虚に学んでいく姿勢が必要だったと思います。それは、今でも私の大きなテーマです。時に不足の心が出てしまう事もあるけれど、本当に大切な人間の根幹だと思うのです。それに気付けた私は有り難いことを教えてもらったと思っています。そういったことに出会う心の種がある自分を知って、自己コントロールしていきなさい、実践あるのみだよということを最後の面談で伝えられたと記憶しています。私自身、そのことは今でも大切で、常に気をつけて心がけていかなければいけないことだと思っています。

現在、ケアを卒業し、生活体験を4ヶ月半、その後アルバイトでウエイトレスを続けて2ヶ月半となりました。まだまだ自分をコントロールすることが出来ず、不安定に陥ることもあります。それは、自分がまだまだ未熟だということを教えてもらっているのだと思っています。今は自分の考え方の癖、傾向をもっと把握して、改善していき、よりよい自分になる為の努力をしていく段階であると思っています。自分の病を克服し、まだまだ自意識や癖の強い私ですが、この病気を通して一つ勲章をいただいた様な気もしています。今後は少しずつですが、同じ病を持つ人の力になれたらと思っています。

いさどん、陽子ちゃん、まり姉ちゃんのケアサポートチームを始め、ファミリーの皆様には大変お世話になりました。色々と出来の悪い私に、時に暖かく、時に厳しい言葉をかけていただいて本当にありがとうございました。そして、送り出してくれた父、母にも感謝しています。ありがとうございました。

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そして、大人会議でケア滞在記を発表したゆかりちゃんに、いさどんは次のような言葉を送りました。

いさどん:
統合失調症を一般で言われているように一生治らない病気と捉えるのではなく、「この人は良くなるかもしれない」と可能性を感覚的に捉えて取り組んだら、統合失調症でも良くなる場合があります。今ここに滞在しているSくんは、ここに来る前に10年間精神病院に入院していましたが、今は幻聴・幻覚がすっかりなくなっています。ところが、お医者さんは統合失調症を治らない病気と決め、ほとんどの人は生活から薬が切り離せなくて生涯を終えていくのです。

しかし、実際にゆかりちゃんと接してみて、僕はどのように本人から「自分が病気である」という思い込みを外していくか、そして思い込みを外したかわりにそれをどのように捉えていったらいいのか、ということを伝えていった記憶があります。それは良くしようとかではなく、目の前にあるとっかかりから進めていっただけです。結果、薬が必要なくなり、薬がなくなっても症状が変わらない状態になってきました。ゆかりちゃんはケアとして滞在する期間が他の人よりも長かったのですが、徐々にゆかりちゃん本来の健康な性質が出てきました。

ある段階を経て、家族からの経済的な支援も超えて自立するための取り組みをしようということで、今はアルバイトに行っています。そこでは1度や2度は弱音を吐いたり、トラブルが起きるだろうと思っていたのですが、全くそういったことはありませんでした。ケア滞在期間やその後の一般滞在の時でも、あんなに色々と声をかけてきたのに、今彼女は自己コントロールしながら上手に世の中を歩んでいます。だから、ゆかりちゃんの存在は僕の中で最近は薄いのです。濃い人は気になる人で、問題を持っているからこそ気になるのですが、最近は全く気になることがないので、以前はとても気になる人でしたから、とても不思議な感じがしています。

これは大分良くなってからのことですが、ゆかりちゃんが面白いのはいつも一生懸命で、見えないところでも一生懸命仕事をするのです。人に評価されたい人は見えるところだけやって、見えないところは手を抜いているものですが、ゆかりちゃんは見えないところでも一生懸命やるのです。時々やりすぎていた時もあり、「無理しないようにね」と声をかけていたこともあったのですが、最近はまったく声をかけなくても安心して見ていられる人になりました。

ゆかりちゃんは滞在記の中で、「一つ勲章をいただいた様な気がする」と書いてあるのですが、僕はぜひ精神医療業界からゆかりちゃんを健康にした功労者として勲章をいただきたいと思います。世の中では、まだこういうことを信じられない人たちもいます。本当はこういう取り組みをもっと大切にして、いのちを金儲けの対象にしてはいけないと思うのです。そういう世の中にしていきたいと思っています。

ゆかりちゃんの言葉にあるように、これからも同じ病を持つ人、つまり他者の為に生きる人になってもらいたいと思います。

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めいちゃんのケア分析

 4月20日から2カ月弱、ここでケア滞在をした41歳のめいちゃん。卒業コンサートの時には自らの想いを正直に綴ったケア滞在記を読み上げてくれました。今回は、そのケア滞在記をご紹介したいと思います。

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二年前に木の花ファミリーを知り、ホームページにある「おやじの館」(現 心の湯治場)をずっと読ませてもらっていました。精神の薬を飲むようになってから、かれこれ18年以上たちます。最初は抑うつ神経症だとか鬱病と診断されていて、躁の症状が出るようになったのは7~8年前くらいだったと思います。 これまで心の病に効果があるといわれることはたくさんチャレンジしましたが、どれも効果は持続しませんでした。

木の花ファミリーへ来れたのは、完全に行き詰まり木の花ファミリーに賭けるしかなくなったからでした。そううつ病よりも集団恐怖や対人恐怖症のほうが実は辛い私にとって、ここへ飛び込むことは大変勇気のいることでした。24時間生活を共にするということは私にとって大きなプレッシャーでした。

 *各種依存症の克服について*

ここに来た当初、私はニコチン中毒・薬物依存症や共依存症(人への依存)などあらゆる依存症を持っていました。何かにもたれていないと保てない、とても危うい自分でした。今後も誘惑に負けないコントロールが必要です。 最初に苦労したのはタバコでした。一日一箱だったのを一日5本~3本と徐々に減らしていき、禁断症状もどうにか乗り越えて一週間ほどでやめれたと思います。ここに来た時点で精神の薬は6種類あったのですが、一週間経過した頃2種類のこううつ剤と1種類の躁の薬を思い切ってやめました。睡眠薬や躁のお薬はやめるまでにかなり時間が掛かりました。最後に躁の薬をやめたのですが、一ヶ月と10日も掛かりました。ケア滞在史上で最高記録になったのではないでしょうか? 今思うと、これらの依存症は寂しさを紛らわす一時的な手段であり、自分と向き合う苦痛から逃避する手段でもありました。ここの環境なくしてはどれもやめることはできなかったと思います。精神的に自律している人たちの中に入る体験ははじめてなのですが、特定の人を拠り所にできないということは、私にとって補助輪のない自転車を一人でこぐくらい不安で心もとないことでした。今でも誰かにもたれたい傾向はあるのですが、その誰かがいなくても大丈夫な自分もできてきて新鮮な感覚です。

*高い精神性と多様性がもたらす効果*

木の花ファミリーの高い精神性には圧倒されっぱなしなのですが、それにつられていくと誰に言われることなく、自然に自分の問題点に気づいて修正していけるところがとても良いです。集団なのでたくさんの考え方にいつでも触れられ、自分の偏りに気づくことでバランスが取れるんだなと思いました。そして相談を持ちかけるとみんなが手を止めてでも我が事のように懸命に話を聞いて一緒に考えてくれます。これは一般社会ではほとんどないことで、一人ぼっちじゃないと実感させてくれました。これはうつが回復する大きな要素だと思います。

いさどんから私の中の独特な個性や発想のユニークさを生かすと人間関係も良くなるよとアドバイスをもらいました。具体的には、たとえ話をすることが得意だとまりねぇが教えてくれました。その場その場で思い浮かんだイメージを口に出しているのですが、それが場の雰囲気を和ましているなという実感がありました。最近でいうと、子供たちが入った後の浴槽のお湯のにごり具合を見て「はまぐりのお吸い物もこんな色してるよね」と言って、“さすがめいちゃんらしい発想でユニークだね”というような反応がありました。

私はいじめや虐待の多い人生を送ってきたため、とても長い期間心に分厚い鎧をつけて閉ざすことで自分を守ってきました。そんな私にとって“正直・素直・信じる”の中の正直の部分で、隠し事をせず心をさらけ出すということは驚きでした。ここにいると、どんな醜い自分でも許されているのだなと心の狭い私は申し訳ないようなありがたい気持ちになり、心がほぐされました。2ヶ月の滞在でもまだ自分を出し切れておらず、今後の課題となりました。木の花ファミリーが心磨きをしている内容はそのままケア滞在する者にとって短期間で癒しをもたらすものとなっていると実感しました。

さて、薬をやめることはできたけれど、病を引き起こしている心のあり方のほうが改善されていません。その心のあり方というのは私の場合、被害者意識と不平不満や愚痴が多いというところです。これは今後一番大きな課題となりました。それから自分を許すということも課題です。また一人で行き詰まったら、長期滞在で勉強させてもらいに来ます。そのときはよろしくお願いします。

今後はいさどんからも提案してもらっているように人の心をケアできる人を目指す方向で歩んでいきます。私の分析力や洞察力は人様に有効に使える考え方に切り替えていきます。

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卒業コンサートの後、みんなに見守られながら、ご両親とお兄さんと一緒に帰っていっためいちゃん。めいちゃんの特徴は「独特な個性」と「賢さ」です。今まではその個性を人に理解されないと孤独に感じたり、賢さを不平、不満のエネルギーとして使ってきた結果、鬱病が発症するまでに至りました。これからはめいちゃんらしく生き生きと、その高い分析能力や心理学を勉強してきた知識を世の為人の為に生かしていってね。私たちは家族なのだから、これからも心を学び続けながら、共に歩んでいこうね。

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昭和天皇が現れて

今回のブログはようこが昭和天皇にまつわる話を大人会議でシェアしたところ、いさどんが昭和天皇様とのエピソードを話してくれたので、みなさんに紹介します。

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ようこ:5月に入ってから夜休んでいると、衣冠束帯の姿をした方が自分の前に現れるようになりました。でも、表情は見えなかったので、「この方は神様でおられるのか、亡くなられた人の魂なのか、誰なのだろう?」と思っていました。そして、いさどんの生前葬の翌日の夜にその方の顔が浮き上がり、それは昭和天皇であることが分かりました。

今朝いさどんに会った時、自分の中に同じ姿をした昭和天皇がまた現れたのですが、特に言葉はなく、ただいさどんに会いに来たようでした。いさどんの生前葬前後に正装で現れた昭和天皇は、いさどんに「よろしく」と言っているようでもあり、また肉体を所有しない世界に「ようこそ」とでも言っているようでした。

以前、いさどんのもとに昭和天皇の魂がいらっしゃり、「日本をよろしく」と言われたという話を思い出し、いさどんに「その時の昭和天皇もこのような姿をしていらっしゃったの?」と聞いたら、「雰囲気としてはそんな感じだったね」と言っていました。いさどんの生前葬の最中は昭和天皇がいらっしゃっているという感覚はなかったのですが、きっとこの祭事にも参列しておられたのだと昨晩思いました。

いさどん:僕が30歳の12月26日から(その以前からおばあさんとの間にはありましたが)、上からのメッセージをいただくようになりました。そして、しばらくしてから「1000日の業をいたせ」という言葉が降りてきたのです。「何をしたらいいのだろう?」と思っていましたが、その日から毎日瞑想をすることになりました。1000日、3年間(3×365日=1095回ほど)、瞑想をしました。その1年後、今から29年前の1982年、昭和57年頃、僕は幽体離脱をするようになりました。その極みは、瞑想の最中に宇宙へ飛び出して、地球を見てくるというようなことが起こりました。背中に月があり、目の前に地球がある。地球を外から見て、地球と人類の関わりを転換しなければと思ったのです。人類は地球のガンのようだけれど、人類を地上に降りてきた本来の目的に目覚めさせなければいけない。その体験は僕の世界観に大きな影響を与えました。

それから7年、日々霊的な対話を天としながら真面目に歩んできました。自分に理想がありながら、同時に自分の非力さに悩んできました。ブッダから道をいただきながらも、そのマスターに専念して世の中に伝えることが充分にできていない状況でした。当時も毎日相談者が僕のもとに訪れてはいましたが、自分の中にはどうしても不足感がありました。

昭和63年に昭和天皇が病気になられました。その当時は瞑想をする時は病床に伏している昭和天皇に心を向けていました。亡くなった時に僕は天皇を思い浮かべ、言葉をかけていました。「私は今、天からこの国、そしてこの世界の行く末の道を開くようにと命をいただいている者です。しかし、私はいっこうにその役割が果たせそうになく、悩んでいます。私のような力のない、名もない、影響力のないものがそのような命をいただいても、志だけが高く空回りして、歯がゆい思いをしています。あなたは天皇と言われるくらい有名でもあれば、大きな影響を持っておられる方です。あなたが肉の体を持っておられるうちは、私のような者はお目通りなどできない関係でした。しかし、あなたはこの国の象徴として、大きな役割を果たされました。私は何でもないものであっても、この国の将来、人々の未来について大きな使命を自覚しています。私はあなたが肉体を持っているうちは、あなたに問いかけをすることができない立場でしたが、肉体を離れられたのなら、私の言葉はあなたに通じているはずです。あなたの大きな影響力をこの世のために、私に貸して下さい。それはあなたの意思でもあるはずです。」

そのような言葉を瞑想中に投げかけていました。そうしたら、ある映像が浮んできました。地上から光の玉を先頭に、光のラインが天へ昇っていく。それが目の上45度くらいまで上がった時に、下からぶわっと無数の、例えるならとなりのトトロのまっくろくろすけのようなものが、中心の玉に向かってまとわりついたのです。その時に、叫びが聞こえました。「昭和天皇様―!」と慕っている心、そして「昭和天皇めー!」という恨みの叫び。水風船のようなぶよぶよの玉が光の玉に向かっていき、巨大な玉になっていきました。その時に、僕は理解できました。この方は沢山の魂の目標になって、慕われたり、恨まれたりと、それほど地上で大きな役割をされて亡くなった。そのかたまりが大きくなって回りだした時に、天から光の柱が降りてきて真ん中に刺さりました。そうしたら、黒いかたまりは散り散りになり、光の玉は天の光に引かれて昇っていったのです。その時に、「昭和天皇様は現人神だった」と思いました。昭和天皇は、金星に帰って行ったのです。僕は金星から来た魂ですが、この方も金星から、人類を目覚めさせる役割として降りてきたのだと思いました。僕は本当はこれからやることについて力になってほしい、ということへの返事が欲しかったのですが、それを見て返事はいらないと思いました。

数年後、愛知県の春日井市にあるマンションの内装の仕事をしていたら、後ろの壁の角あたりに誰かがいる気配がしました。振り返ったら、昭和天皇様がいらっしゃいました。「えらい所へおいでになりましたね」と言ったら、この方は非常にかしこまって挨拶をされました。「その節は、私に声をかけてくださったにもかかわらず、何も返答をせずにおり、大変申し訳ありませんでした。あなたがどんな方かということがわかりましたので、改めて挨拶に参りました。日本の国をよろしくお願いします。」天の神々は、日本のことを「日の本の国」と言いますが、昭和天皇様は肉の体を持っておられた方なので、「日本の国」とおっしゃいました。改めて自分にそう言われて、「そんなことが自分に出来るのだろうか」と疑心暗鬼の状態でその言葉を受けました。それが1988年、僕が37歳の時のことです。

それから2年と少し後、39歳の時、僕は9年間のお釈迦様からの学びを終え、日の本の神々から命を受けるようになりました。それと同時に12歳年上と12歳年下のシャーマンと関わるようになったのです。年下の方のシャーマンのお母さんから、ある時電話がありました。「今、昭和天皇様がおいでになっています。すぐ来てください」と。夜の11時頃だったと思います。名古屋市守山区にあるその家に行くと、昭和天皇がシャーマンの中に入られて待っておられました。シャーマンは、昭和天皇様の顔をしていました。雰囲気もそのままです。そして、「先日は、突然あなたの仕事場に行き、失礼しました」と言って、あのマンションの話をされるのです。シャーマンはそれをまったく知らないのに。霊的なものへの確信はもとからありましたが、その時にこの出会いは本物だということを確信しました。

そして、それ以後も昭和天皇様は事あるごとにおいでになりました。創立メンバーの中にはその場面に立ち会った人もいます。シャーマンのいくよさんは、言葉のトーンから雰囲気まで、どう見ても天皇がおられるという感じでした。僕にとって昭和天皇はふるさとが一緒のお友達のような感じです。宗教の教祖のような人たちの中にも霊的なお友達がいますが、昭和天皇は特に親しい感じです。

今朝、たまたまようこちゃんが先日の生前葬の時にも昭和天皇がいらっしゃっていたと言いました。「最近会ったことのない人が私の所によくおいでになる」と言い、「それが昭和天皇だということがわかった」と言うのです。過去には沢山交流がありました。ようこちゃんがそういう霊的なものをいただき、今日この話をしてくれて、僕も思い出しました。

天皇家は今も息子さんが天皇をやっておられますが、昭和天皇までが現人神。ここから先は現人神と言えるか難しいと思います。我もあれば、執着もある。昭和天皇のように、我がなく、世のため人々のために生きられる魂は、これからの天皇家には降りて来ないのではないだろうか。

そうやって、僕は普通の人が出会えない霊的なもの、理解できない人には怪しい世界の出会いを沢山もらってきました。そして、その時々で近くにいる人にそれを語ってきました。そうすると、私たちの日々の歩みの先に別の所からその裏付けが現れたり、物理的に証明されたりするのです。今ここに集っている人たちも、この不確かな話が真実として裏付けられることで、「信じる」という心が生まれ、ともに歩んできました。理解できることを信じるのは当たり前の話です。それは信じるとは言えません。わからないことを信じられるのが、信じるということです。不確かなことでも大事と思うことを語り合いながら信じて歩むと、その先に色々な形で答えが現れてくるのです。そうして、この信頼の場が出来てきました。

最近夜寝る前に、宇宙(銀河の雲)をイメージして、宇宙を司る神々、神界を司る神々、そして地上の聖者、聖人たちといった名前を挙げ、そういったものたちにこの地球の人類を救済するため力を結集しましょうと呼びかける瞑想をしています。それが必要と思った時にその瞑想をするのですが、その影響なのか、5月3日、昭和天皇様もその呼びかけに応じておいでになったのではと思います。今まで重要な役割をしてこられた霊的な人々、また肉体を持つ霊的意識の高い人たちが結集して、新しい扉を開く時が来ています。

れいちゃん:私も過去にそういう場に居合わせました。空気で、昭和天皇がいらっしゃるのがわかりました。本当に真実。記憶では、昭和天皇は「庶民はいいな」とおっしゃっいました。

いさどん:みんなでコタツに入ってみかんを食べていたら、「庶民の生活はよろしいですね」とうらやましそうにその場を眺めて言っておられました。

まりちゃん:立っている姿、姿勢が印象的で覚えています。

いさどん:こういうふうにね。(と言って、前かがみになり手を前にかざす。)

のりちゃん:ちょっと前かがみで。

いさどん:話を終えて「今日は失礼します」という時に、そういう姿勢をとられていました。

かずこちゃん:懐かしい話。またこういう話が出るようになり、国のために、そういう意識を持ってやっていきたい。身が引き締まる気持ちになりました。

まりちゃん:私も、懐かしい。当時を思い出しました。本当に、信仰から始まった。始まりがそこだった。今でもそうだけれど。昔は「天に心を向ける」が合言葉でした。何か問題が起こると、「上に心を向けるのが足りなかった」と自分たちの心を振り返ってここまで歩んできました。今でも人は増えて一人一人の言葉は違っても、同じ方向を向いている。将来も形は変わっても、そこだけは変わらずにずっといく。

たっちゃん:生前葬の時に感じたのは、これからは地上も天界も、八百万の神と肉体を持つ我々とが密に協力し合って、ともに作っていくことが必要だということ。僕らはこういう生活をしていて、志ある者が一人一人目覚めていき、ブッダやイエスとして協力し合っていくのだから、いさどんの行なっているその呼びかけは大切。思いを結集させるということを自分自身もやっています。

いさどん:その呼びかけは、「どうか皆さんの思いを結集させて、この地球人類を一つの道に導くことをやっていきましょう」という瞑想です。そのような絵空事なことをやってきて今、ここにこういう場が出来ています。いい加減ではない、本当に信じてやる時代です。やった人はそれに相応しい役割を果たしていきます。わからない人にはわからない。しかし、わからないことを信じていくのが、いかに大事かということです。それを意識して真剣に取り組んだものは、確実に霊的な成長をしていきます。私心を離れて世のために祈ることをすれば、確実に育っていくものです。今は見えないかもしれないけれど、信じて歩んでいくと、未来にその裏づけが待っているものです。そして、確実に自分が成長しています。

人はいつか必ず死ぬものです。60年も70年もあっという間に来てしまいます。その時に、本当の尊厳が身についていて、これこそやるべきことをやり遂げたと大満足で往生が出来るか。本来、それが人として、地上に肉の体をいただいた目的、学び、なしえる、最も大事なことです。できれば、己を置いて世のため人のためにこの心を使いたいものです。それが菩薩行。ブッダとして、キリストとして生きることということです。昭和天皇の心は人々の「安穏で幸せな日々を願っております」という心そのまま、菩薩を生きた方でした。

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いさどんが行なっている瞑想は以下の通りです。よかったらみなさんも試してみてくださいね。

★この瞑想は蓮華座を組んで行なうのもよし、上向きに寝た状態で寝る前に両手や体全体、意識を天に向け、宇宙から地球の魂たちに呼びかけるという気持ちを込めて行なうものです。

天之御中主大神(アメノミナカヌシノオオカミ)

高御産巣日神(タカミムスビノオオカミ)

神産巣日神(カミムスビノオオカミ)

伊邪那岐命(イザナギノミコト)

伊邪那美命(イザナミノミコト)

国常立命(クニトコタチノミコト)

天照大御神(アマテラスオオミカミ)

木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)

八百万大神(ヤオヨロズノオオカミ)たちよ

イエス・キリスト

ゴータマ・ブッダ

ムハンマド

ソクラテス

孔子・孟子

諸々の聖者たちよ

出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)

出口なお

中山みき

岡田茂吉

五井昌久

山岸巳代蔵

昭和天皇

ガンジー

マザー・テレサ

諸々の聖人たちよ

今、集い、地球の人々の心の扉を開けよ

★あなたが想い当たる神々、仏、聖者、聖人たちの名を想い浮かべればよいのです。声に出して唱えてもよい。

★宇宙を司る魂、地球神界の魂、過去の偉大なる聖人、聖者たちの導き・教えが今までは地球上でバラバラになっていました。7人の聖者(天照大御神、イエス・キリスト、ブッダ、ムハンマド、ソクラテス、孔子、孟子)が現れた時にその聖者たちから感じられたメッセージは、「道は一つ、心は一つ」。しかし、現実には人々の中に道はいくつもあって心は一つになっていません。それを一つにしていくために行なうのがこの瞑想です。天からの意志を受け取り、その意志に目覚めたものとして「私はその意志に目覚めたものです」と、地上から天に向かって呼びかける瞑想です。

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人生は一本道

農業高校の先生を目指していた24歳のカトケンは、昨年1年間自然農法センターで学び、今年の1月からは1年間の予定で木の花で農業研修を受けていました。2月下旬のある日、「自分について知りたい」ということで、いさどんと面談の場がもたれました。

PDFファイルはこちらからご覧下さい

カトケン:
今日は「自分のことを知りたい」と思って面談を申し込みました。あと、「心を磨くというのはどういうことなのか」と「家族関係について」も聞きたいと思っています。よろしくお願いします。

いさどん:
まず、自分のことも、心を磨くのも、家族についても、なぜそういうことについて知りたいという発想が生まれてくるのかということです。自分の内から湧き出てくる感情や欲求は、理由があって湧き出てくるわけです。人間というのは思考を持っているものです。その中で賢明な思考を持っている人はなかなかいません。たいていは不健全な思考を持っていて、それを外に出すことと内に秘めておくことを使い分けて生きているのです。だから、人間は高い能力を嘘つきの方に使っている人が多いことになるのです。

カトケン:
嘘つき・・・?

いさどん:
普通の人間というのは本音と建前を使い分けて生きているということです。そうやって、日々ひとりひとりが自分の物語を生きているわけです。持って生まれた魂にふさわしい自分自身を出していくことが正直ということです。それに対して、正直を出そうとした時にそれを許さない環境をもらっている人もいます。

例えば、あなただったら「賢太」という陰性で物事に対して積極的に行動をとれない人が、陽性の父親と母親のもとに生まれました。父親は「物事はこういうもので、こうすれば良いのだ」と自分の世界で自己満足に生きる傾向の人です。こういう人は頑固者で自分の考えを曲げない人です。

カトケン:
そうですね。

いさどん:
他人のことを見れば、「あれはああだから、こうなんだ」と決めつけるくらい、自分が強く頑固者です。そういう人と、あなたの母親のような自分が強いタイプの人が一緒になっていること自体がストレスです。どんな事情があっての結婚なのかは知りませんが、これは珍しい組み合わせです。62歳と61歳で僕らの時代だから、恋愛もOKの時代だったからね。団塊の世代だし、神田川や同棲時代が流行っていた頃だから、意外と自由だった。そういう時代にこういう組み合わせで結婚をしたということは、何か事情があって結婚したということだと思います。今、父親が62歳で母親が61歳で3人兄弟の長男のあなたが24歳だから、これを計算すると、あなたは父親が38歳の時の子どもです。そうすると、結婚が遅い。子どもが出来ない期間が長かったのではなく、結婚するのが遅かった。だから、「歳が来たからということで結婚しよう」というように結婚をした人たちだと考えられます。

それから、お父さんは魂がごついタイプの人にも関わらず、次男坊で三人兄弟の末っ子です。お父さんが家の後を継いでいるのですか?

カトケン:
酒屋があるのですが、一つではなくて二つあるのです。

いさどん:
そうすると、長男と次男で別々に後を継いでいるということ?

カトケン:
そうです。

いさどん:
お父さんは次男だけれど精神的にはリーダー的タイプです。魂の形を観ると、本来長男、次男が逆であるべきなのですが、そうすると、お父さんのようなタイプの人は「俺は次男だけれど兄貴よりは筋が通っているし、家を継ぐこともふさわしい」という自負心があるのです。自分が強く、他者の側に立ってあまりものを見ないタイプです。

それに対して、お母さんは理論的でおせっかい焼きなタイプです。どういうおせっかいを焼くのかというと、「こういうふうじゃないとダメ、ああいうふうじゃないとダメよ。こういうふうにしたら、ああなってしまうから、こうしないとダメよ」というふうです。その心が特に強く現れるのは子どもに対してです。パートナーが自分の思い通りにならずに対立関係にあるから、そのはけ口が子どもに向けられることになるのです。そうすると、第一子で長男として生まれたあなたは、子どもの頃から母親の思うがままに育てられる対象でした。あなたは親が言うことに対して応えてきたけれど、この場合親の能力が高いので、ある時あなたが親の意向に沿わないと気づいた時に、「これは仕方がない。子どもには子どもの人生があるのだし、私たちのことは私たちで考えましょう」という結論に到達します。つまり、親は他人に対して依存しない体質なのです。

しかし、親が子どもの頃からあなたに対して期待をかけてきて、それに対して応えようとしてきたあなただったから、あなたの中に本当の自分を表現出来なかったという感情が残っているのです。

カトケン:
・・・そうですね。

いさどん:
今、弟たちふたりはどうしているの?

カトケン:
ふたりとも東京に住んでいて、東京農業大学に通っています。

いさどん:
なぜ、農大なの?

カトケン:
お父さんが「これからは農業が大切だ。今後環境が悪くなっていくから、そういうことを学んでいきなさい」と言っていたからです。

いさどん:
「もう、俺たちの頃のような仕事の時代じゃないぞ」ということか。

カトケン:
はい。それは小さい頃から言われてきました。

いさどん:
ただ、親が考えて親の言う通りに進んでいく人生というものは、誰でもある時気づく時が来るのだよ。「俺って本当にこれがやりたかったのだろうか?」と。お父さんからしてみたら、「これからは時代を読んで、こういうふうだから、こういうふうにしなければいけない。俺の言うことは間違いないから、こうしなさい」と言うのだろうけれど、それだけで子どもは納得がいくのかといったら、無駄もやりながら成長していくんだよ。

あなたは真面目に親の言うことを聞いて、大きくなってきた。真面目なのだけれど、自分流の道の探し方、それは親というものと距離を置いて自分の道を探そうという心が出てきているのだろうと思う。それはなぜかというと、親の方からしたら親の思う通りになっていないという感情があるからです。

カトケン:
それは僕に対して・・・?

いさどん:
親からしたら子どもであるあなたを見て、「俺たちの思う通りになっていない」という感情があるのです。しかし、この親は能力が高いから、「まあ、仕方がないか」というところで納得しているのです。そこで親子の気持ちにギャップがあります。しかし、それよりもあなたの中には今までずっと親の存在が大きかった。それに対して、すっきりしていないあなたがいるのです。いつも自分のどこかに親というものの存在があって、そこから自立出来ていないあなたがいたということです。今後も、彼女が出来たり、結婚して家庭を持ったり、いつも人生の節目の時に親というものがあなたの頭の中に浮かんでくるのでしょう。

カトケン:
浮かんできますね。

いさどん:
しかし、親はあなたの希望がわかってきたから、もうあなたを自分たちの思い通りにしようと思っていないのです。ところが、特に身近な他者(親)に影響されてきたあなたが今もいるのです。親との気持ちにギャップがあるということです。それはあなたが親に対して依存しているからです。そういう気持ちがなければギャップなんて気にせず、距離が出来てくるから問題ないのだけれど、それだけ親との関係が深いからギャップを感じるという状態です。つまり、親から自立出来ていないということです。それが今のあなたの状態です。

本当はそろそろ自立して、「自分がどう生きるのか?」ということを捉えていくことが大切だと思いますが、どうですか?

カトケン:
何かを決めようと思う時にやっぱり親の顔が浮かんできて、自分で考えていてもどこかで親に方向を変えられるのではないかと思ってしまいます。それで今やるべきことに集中できなかったり、苦しい時があります。

いさどん:
あなたはずっとそうやって育てられてきたのです。さて、ではこれをどうするのかということはあなたの意志です。自分の本音のところを出したらいいのです。今まであなたは本音のところに問いかけるということをあまりしてこなかったはずです。どうしても他人の顔色を見て行動してきたあなたがいるのです。自分の奥にあるものに「本当に自分がどうしたいのか?」ということを問いかけ、それを引き出すことが出来るかどうかです。

カトケン:
僕は正直に生きたいです。

いさどん:
そういう意味では、今まであなたは嘘をついて生きてきたのです。今まで嘘をついてきたから、「正直に生きたい」と思うのです。今まで人の顔色を見て育ってきたから、正直を出せずに生きてきたということです。では、正直に生きるというのは具体的にどういうことですか?

カトケン:
例えば、その時その時で進路を決めていきたいなと思います。

いさどん:
そういう抽象的な言い方ではなく、人によっては精神性の熟し度が色々だから一概には言えないけれど、例えば「自分はこういうふうに生きていきたい」という方向性がすでにあるのかどうか?

カトケン:
まだ具体的にはありません。

いさどん:
でも、今ここで暮らしているよね。これももしかして、親が「これからは農業の時代だ」と言う延長にあること?

カトケン:
いや、自分の意志でここにいます。

いさどん:
ということは、親が言ったこととあなたの中にある目的は一致しているから、今ここで生活していると思うのです。

カトケン:
ここに答えがあるというのはわかります。

いさどん:
ここに答えがあるというのは、ここというものをあなたがどう捉えるかによってここに答えがある場合もあれば、そうでない場合もあるのです。そうすると、あなたにとってここに答えがあるということでないといけないのです。

カトケン:
僕にとってここに答えがある・・・。

いさどん:
私たちはここに答えを見出しているからここで生きているけれど、人によって価値観は色々あるのです。だから、その答えをここに見出した人にはここに答えがあるのです。あなたがそれに共鳴して、自立した個人としてここに答えがあると思うのであればいいのだけれど、「何だか楽しそうだから」とか「自分にとって都合がいいから」ということで駆け込み寺のようにここにいるのだとしたら、ここに答えはないわけです。ここの人たちは常に自立した人たちで、誰かについてきたり、親が言うから生きてきたということではないのです。そうすると、ここに答えがあるというのはあなたが自立して誰にも影響されないところで、「自分の人生の答えがここにある」と考えるのであればいいのです。

カトケン:
はい。こういう生き方が自分の目指している生き方だなと思います。

いさどん:
あなたは真面目だからね。それを「不真面目になりなさい」とは言わないけれど、これが大切な道と判断した場合はそれでいいわけです。それも個人の意志だから。僕の場合は30歳まで色々やってきて、この道に出会い、40歳から今の生き方を歩んできました。でも、あなたのように24歳にして大事が見つかって生きていくことは無駄なエネルギーを使わなくて済むし、それはそれでいいと思う。

僕の解釈からすると、この道は最終到達地点のようなものです。ここに到達するために、人は一般社会の中で色々なことを経験しながら、ここまで歩んでくるのです。ここからまた外れていく人もいます。自分の気持ちに正直というよりも、憧れのように他人に影響されてこの道に踏み出したものの、まだ十分に嘘も欲望も処理しきれていない人は、もう一回社会に戻らないといけないことにもなるわけです。それについてはどう思う?

カトケン:
社会に戻らないといけない・・・?

いさどん:
一般社会では会社のニーズに応えていれば、いい加減でも認めてくれるわけです。しかし、いい加減というのは本来それが社会の中の色々なトラブルの種になるのだから、賢明なものはそこを綺麗に処理していきたいものです。ところが、人によってはトラブルの種が魅力的に観えるわけです。タバコを吸うことでもパチンコをやることでも、低いレベルの恋愛をすることでも、意識の段階によっては魅力的に観えるものです。この道はそこのところを超えた学びの最終ステージみたいなものです。つまり、自分というものを超えて、世のため人のために生きていこうとする道だからです。

そうすると、その生き方を24歳で歩んでいこうとする時に、あなたは今までずっと真面目にきたから、不真面目をやらないで悔いがないかどうか?後から、「やっぱりもう一回不真面目をやりたい」とやり直すようなことはないかということ。それについてはどう思う?

カトケン:
不真面目というのはタバコとかパチンコとかそういうことですか?

いさどん:
それは何でもいい。それは人によっては真面目なことにもなること。例えば真面目にニコチン中毒になってタバコを吸いたいということもあるのです。でも、不真面目を全くしないで、ストレートに大事を歩む人がいてもいいわけです。それを確認しているのです。確認といっても、僕が今あなたの採用試験をやっているわけではありません。あなたが自分に問うてどうなのかということです。本当はあなた自身で知ることが出来ればいいのだけれど、「自分のことを知りたい」ということで今日の面談があるから聞いているのです。本来は、あなたが自分の中で自分に問えばいいことです。ところが、あなたにそれが出来ないということから、僕が代わりに親との関係を分析しながら聞いているのです。

あなたは親からのプレッシャーを受けながら、それでも心が歪まないで真っ直ぐ生きてきた。それで、そのまま最終ステージのような生き方にたどり着いた。それを今、「自分の道だ」と言っているあなたが、「本当にそれでいいのか?悔いはないのか?」と自分自身に問うてみるということです。ひょっとして先に行った時に、「恋に溺れてしまったから、ちょっとこの道を外れます」というようなことがあるかもしれない。それはそれとして、今自分の心を観てみてそういう気持ちがあるかないか?

カトケン:
自分の心の中に「農業高校の先生になりたい」という気持ちがあります。

いさどん:
それは前から言っていたよね。

カトケン:
それで自然農法センターで勉強していたのですが、頭に知識を詰め込むのではなく、心を磨いていった方が気持ちいいし楽しいなと思ったのです。心を磨いた後に勉強して農業の先生になって、心を伝えていきたいなという想いがあります。

いさどん:
公立でも私立でもいいけれど、農業高校の先生というのは一般の人です。そうすると、心を磨くことと農業高校の先生になるということは、あまり一致しているわけではないのです。心を磨かなくても農業高校の先生になれるわけです。農業高校の先生は文部科学省がつくったカリキュラムにのっとって教えることだから、そうすると今まであなたが歩んできた農業の現場とはちょっと反するかもしれない。コスト面を考えるような国の農業政策に合わせた農業を教えることになります。そういうことは妥協していくつもり?

カトケン:
以前に講師をしていた時に、「農薬や化学肥料を使った農業は自分が教えたいものではないな」と矛盾を感じていました。

いさどん:
確か1年前ここに来た時にみんなとその話をして、「道は農業高校の先生だけではないね」という話になったと思うんだよね。昨日の大人会議であなたが心のシェアを出した時に、こうちゃんが「昨年も同じことを言っていたよね」と同じ話です。ということは、昨年のみんなからのアドバイスが全然生きていないことになる。農業高校の先生になるということは、今のところ、ウエートは99%一般の農家、つまり国の政策の受け皿になる農業を伝える先生ということです。これから将来のことはわからないけれど。

例えばこれから世の中が急激に変わっていくと、有機農業や新しい代替農業が必要になってきます。その時にあなたがそういった技術を身につけていて、農業高校の先生の免許を持っていてそれを売り込めば、そういうノウハウを持っている先生はなかなかいないのだから、これは非常に評価されることになると思います。ただ、有機農業や代替農業を教えられる先生が、職員室で心の話は出来ないということはあると思います。

さらに展開していくと、ここのメンバーでありながら、外に働きに行って農業高校の先生をやるということはあり得るかもしれない。そうすると、ここで心を磨きながら学校で教えることができ、色々なことが満たされる。今考えられることをいくつか展開すると、そういうことが挙げられます。

さらに、農業の先生という意味では、高校じゃなくても今たっちゃんがやっているようにここで伝えることもできる。これからこういう農業はすごく重要だから、それを伝えられる技術者が沢山必要になってくる。だから、現場でマスターしたものをここでも伝えていくことが出来るし、こういったエコビレッジの動きの場でこういったことを伝える役割を私たちが担っていく可能性もあるのです。そうすると、敢えて教員という立場を取らなくても、農業を教えるという道は開かれるのです。そして、心を磨き、それを伝える場がある。

あなたがここで何をしたらいいのかというのは、ひとつは目標を持ってそれに向かって進んでいくということ。そして、もうひとつはここのみんなのように、「自分が生きていることは私の意志にあらず」という道。

カトケン:
私の意志にあらず・・・?

いさどん:
「自分が生きていることは私の意志にあらず。私の目的はあなたにあります。世のため人のためなのだから、与えられたことは何でもします」という精神になれば、目の前にあることをやっていくと自然と自分の活かし所にはまっていく。でも、「結果はいただきます」ということ。この世界の仕組みからしたら、私たちは自分の意志でこの世界に生きているのではなく、この世界があり仕組みがあってその中に組み込まれて私たちは生かされているわけだから、そちら側の意志で生きることが一番目的に沿うわけです。それが私たち流に言う、「神様の意志で生きる」ということです。人間には自由が与えられているから、一般の人はそれをやりません。それで右往左往したり、問題事を引き起こすのです。

その一方、自然はすべてスムーズで事が成っています。それはすべてが自然の仕組みの中で生かされていて、必要なところにはまっているからです。ところが、人間はそこで自分で何とかしようという我があるものだから、自然の仕組みから外れた分だけトラブルをもらうのです。それは病気でも人間関係でも何でもそうです。人生の中で自分が予定を立てたことがならないということでもそうです。

それでまたあなたに問うのだけれど、自分の心を観て、あなたはどういう歩み方を望むのか?つまり、自分でああだこうだと考えて目標を設定するのであれば、さっきいくつか挙げた選択肢から自分で選ぶこともできる。これが人生計画というもので、誰でもそうして生きてきたわけだ。

しかし、もうひとつの道は神様の意志に任せて、「私を使ってください。私の存在はあなたの意志にあります。あなたの意志に沿うことがこの世界に生み出された目的にふさわしいのですから、あなたの意志でお使いください」という道を歩むのかどうか。

カトケン:
自分でやろうという気持ちがあると、エネルギーを浪費してしまうと思います。

いさどん:
それは当然そうです。だから、人間というのはこういう修業の場をもらって学んでいくわけだから、より優れた道を歩むということが大切なのです。あなたが心の道を大切にしたいと思うのであれば、そちらを選べばいい。24歳でもそろそろそういう人がいてもいいと僕は思っています。僕には30歳からこういう心の道が始まり、そのあとすごくガタガタしたし、結果40歳まで一般社会で生きてきた。でも、次の時代の人は24歳からこういう道を始めてもいいと思うし、例えばここで生まれてくる子どもたちは今からこの道を生きているわけだ。あなたは時々心が不安定になったりするけれど、そういうことが定まらないから不安定になるとも言える。そうすると、道がしっかりと定まったら、もう揺るがないでそこを歩んでいくことが出来る。

僕は情報として提示するだけのことで、選ぶのはあなたです。神様とあなたの契約です。ここで言う神様というのは、自分が生きていることの証として、生きている目的は何なのかということを探究する結果、この世界にある法則のこと。現象としての事実の連鎖の中にある法則性の中に見出される意志。これがこれからの時代の大いなるものとの接点の仕方であり、ここでは何も人間の欲の心を揺さぶるような宗教性はないわけだ。私たちはこの世界の一物であり、この世界は宇宙の法則の中にあって、そこに法則がある限り意志があるのだから、その意志のもとに私たちも存在しているということです。私たちは非創造物であって、そこには私たちを生み出し生かしているものの意志が働いているのです。

カトケン:
普段作業をしていても、そういうふうに感じでいます。

いさどん:
それならば先ほどの話に戻るけれど、親の影響を受けてきたこともとりあえず事実だし、その呪縛みたいなところから自立した意志で新しい道を歩むということにしたらどうですか?「木の花という環境にいることで素晴らしい人生をいただいた」なんてせこいことを言っていないで、この場所を創り上げる原動力になればいい。私たちは血縁の親の子どもというよりも、大地の子であり、光の子どもであり、すべての生命が家族であるのです。過去世があり来世があるとしたら、そのたびに親も子ももらうのだから、今たまたまこの親をもらっているだけのことです。

そういったことを悟り、揺るぎない意志のもとで生きていけば、何の目的で生きているのかということを認識し、非常に充実した人生を生きることになるのです。人間は色々な出来事をもらい垢の部分をそぎ落としながら綺麗になっていく。生きるということはそういった作業をしているわけです。そうすると、垢があるうちはパチンコをやりたいとか恋愛をしてみたいとか言って世間に戻っていくのです。でも、それはやってみた結果痛みや苦しみをもらいながら、そこから学んでいくことになるのです。その段階ではこういった生活を見て、「あんなに窮屈なことはやれない」と思うのだけれど、さらに次の段階に進むと「あの時は馬鹿な時代を過ごしていた。あんなことで喜びを感じていたのか」ということにもなるのです。それはその人の魂の位置によって求めるものが変わっていくということです。

そうすると、あなたは過去に色々なことを学んできた結果、この年齢ですでにそういった心を持っているのです。僕の不真面目からしたら、あなたはすごく真面目です。それだったら、とことんその真面目を極めたらいいと思います。多少柔軟性はあってもいいかもしれないけれど、それはその時その時の余裕、遊びのようなものだから。もしこのまま進むのであれば、真っ直ぐ行けばいい。その時にはこの道を歩もうとするさらなる原動力、気づきが湧いてこないといけない。しかし、今のあなたにはなかなか気づきが生まれてこない。生まれてきたとしても他人に聞いてみては「ああなんだろうか、こうなんだろうか?」と考えをまわし、昨年話し合ったようなことでも今また出てくるということは、あまり進歩していないということです。

だから、心磨きが大切なのです。あなたは自分というものに執着が強い。「自分がどうするのか?」という心が強いのです。悟りにも色々な段階があるけれど、あなたにも「私のいのち、私の人生はあなたの意志です」という心が出来たら、もう自分がどうしたい、こうしたいという心はなくなってくる。逆に言うと、「私にも意志があります。その意志はあなたの示される意志。そして、それは毎日起きてくる現象、湧いて出てくる気づきに現れてくるのです。それは特定した自分にとって有利かどうかというところにあるのではありません。」そういう心にならないと、そのままの真っ直ぐな道にふさわしい気づきが湧いてきません。磨き切るということの大切さやこの道を生き切ろうとする心はその奥にあるものだから。汚れや垢は表面にあるからすぐに出てくる。しかし、大元にある絶対真理は一番奥にあるから、まわりにある垢や我に捉われていると、その一番大事が観えてこない。だから、自分が生み出された本当の目的のもとに生きていきたいと思うのであれば、まずはその我を取っていかないといけない。それが心を磨くということです。その大切に気づいた人がここでこういった暮らしをしているのです。それがあなたの質問にあった、「心を磨くとはどういうことか」ということの答えです。ひとりひとりが尊いのだから、あなたの中から気づきが湧き出てくるように心を磨いていかないといけない。それが心磨きです。あなたの中にもブッダやイエスのような精神があるということです。

さらに、「家族関係について知りたい」ということであなたの血縁の家族について分析してきたけれど、では家族とは一体何なのかということです。血縁を超えた家族という捉え方が木の花にはあります。この捉え方は宇宙生命としての捉え方です。地球生命というと一般的に私たちが言う自然のことだけれど、もっと大きく捉えれば宇宙生命と捉えることができます。宇宙生命というのは宇宙に存在するすべてのいのちのことです。これを言いかえると、宇宙に生きている神ということです。過去生にご先祖様も子孫もあって、来世にもご先祖様や子孫がいるとしたら、今の特定の家族に執着する必要があるのかということになります。

カトケン:
いや、ないです。

いさどん:
万人が家族であって、すべての人の幸せを願うことが世のため人のためという生き方になるのです。あなたがそういう視点を持つかどうか。心を磨くということはそこに到達することが目的なのです。そうすると、あなたの最初の質問に戻って、あなたは「自分のことが知りたい」と思った。その問いを探究してきた結果、私たちは宇宙生命の一部であり神の一部分となります。そしてそのことをより明確にして、揺るぎのない自分でありたい。人間として生まれてきたということは汚れがあるわけです。だから、「心を磨く」ことが必要で汚れを取り去っていくと、この世界すべてが一体の生命であり、宇宙のいのち、神の「家族」であるということです。これがあなたが聞きたかった「自分のこと」「心を磨くこと」「家族関係のこと」についての答えです。

この道は狭い道です。高くなれば高くなるほど、富士登山でも道が狭くなっていくのです。下に行けば登り口はいくつもあるけれど、上に行ったら頂上はひとつしかない。それが本当の目的なのです。すべての生命の目的です。そこを今、あなたは目指すかどうかです。

カトケン:
僕は悔いなく生きたいので目指したいです。

いさどん:
「悔いなく生きたいから」ということで、好き勝手に生きてみてもう一度戻ってきてもいいんだよ。そういう道もある。しかし、逆に言えばそういう無駄のない道をとことん歩み続けたいという人がいてもいいわけです。僕もこの道に出会ったばかりの頃は、自分の中にずるい性格や欲深い人がいて、それを目指す自分が苦しんだ。しかし、消去法をやっていくと幾つもの人生を生きられない。人生は一本道であることがわかる。「あっ、そうか!」と。今ある心は順番に消していくものであって、それを持っていくものではないと気づいてくる。だから、ウッとしながら自分を消してきた。その時はそのしようもない自分が大切なように思える。そちらの方が誘惑的だし、心をそそられる。それをあえて消してきたけれど、考えてみたら最後に残るのはこの心の道しかないことに気づく。この道は死んでも消せない道なのです。宇宙真理、探究の道だから。それである時気がついた。「もうつまらない考えは捨てて、これだけ、一本で行こう」と思った。そして、24歳にしてそれに気づく人がいてもいい。それはあなたの意志です。ここで「どうする?」と僕が質問すると、かえっておかしいでしょう。あなたの人生ではないみたいだから。だから、あなたが自分で考えてみんなに宣言するなり、自分の中で決意するなり、それは自分で決めればいい。神様とあなたの契約だから。ただ、ぐだぐだして昨年と今年で同じことを言っているようなことは、そろそろ卒業したいものだね。

それに対して親が何と言うかは親の考えだけれど、あなたの親は生活力もあるのだからあなたの道を歩ませてくれると思う。ひとりひとりは自分の魂の位置でものを判断して行動しているものです。しかし、どんな魂も最終的には行き着くところは一緒です。そうであるならば、必ずいつかは、「うちの息子の道はこれだったのか」と理解する時が来ます。今、木の花のことを理解できる人が世の中にどれだけいるのだろうと思ってみると、1000人に一人はいないと思う。しかし、志が高ければ、まわりから理解されなくても歩んでいくことが出来る。それは自分の価値です。世の中の先頭を歩んでいる道だからこそ、まわりの評価を一番に求めるようなことでは、このような道は行けないのです。だから、志を高く持たないと歩めないのです。

あとは自分で考えて、こうやって面談をしたのだから、大人会議で皆に報告できるのであれば発表してもらえればいいと思う。こういう話を聞きましたが、今後の課題として取っておきますと報告してもいいのです。それはあなたの人生だから。しかし、ぐだぐだ先延ばしするのはエネルギーがもったいないからやめよう。

カトケン:
わかりました。ありがとうございました。

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その数日後、カトケンは大人会議で「いさどんとの面談を終えて決意したこと」という心のシェアを発表しました。

カトケン:
いさどんとの面談を終えて、自分なりに決意したことがあります。今までは農業研修生としてここで生活していましたが、7月から仮メンバーとしてやっていこうと思います。なぜ7月かというと・・・。

たっちゃん:
はい!答えは僕の誕生日があるからです(一同、笑)。

カトケン:
(苦笑いしながら)7月5、6日に地元のお祭りに参加したいと思っています。今までお世話になった人たちへの感謝の気持ちを表現できるよう、悔いのないようにやってきたいです。それから、6月下旬に足の不自由な知り合いの方の草刈りを手伝いに行こうと思っています。

なぜ仮メンバーになろうと思ったかというと、ずっとここの生き方に共感していて、僕の生きる道だと思ったからです。ここでこの道を生きていきたい!昨年の数ヶ月の滞在からかなりの時間が経ったのに、なかなか自分の気持ちに踏ん切りがつきませんでした。僕が進路を決断する時にいつも思い浮かぶのは両親のことです。いつも彼らの顔色をうかがって生きてきました。でも、今回は自分で決断しました。
その決断を両親に伝えたところ、母親は賛成してくれました。父親は、「新潟は過疎化しているのだから、木の花で学んだことを新潟で広めてもらいたい」と言いました。それを聞いて少し動揺しましたが、「こうでなくてはいけない!」という親の顔が浮かんだ時に、光輝くいさどんの姿が見え(一同、笑)、父親の顔がかすんで見えました。その時に「やっぱり僕はこの道で行こう!」と思いました。

ひろっち:
僕も親とのことで同じような経験をしています。その時に考えたのは、神様はどういう決断を喜ばれるのかということ。ここで世のため人のために生きることこそ喜ばれることだと思って、この道を選びました。それで親子関係が切れるわけではないし、ここでしっかりやっていけばいいと思います。

あっちゃん:
私も3年前、メンバーになるかどうかの決断ができずにいました。その時じゅんじーに「ファーストインスピレーション!最初に感じたことを真と思って進んでいったらいい」と言われたことを思い出し、メンバーになる決意をしました。カトケンの決断は素晴らしいと思います。

ちなっぴー:
カトケンが心を磨いていけば、それが親孝行になり先祖供養になると思います。

いさどん:
カトケンの両親は賢明な考えを持っているので、最終的にはカトケンの決断に委ねるだろうと思います。地球人として、地球のためにみんなで生きていけたらと僕は思います。

なかのん:
仮メンバーには今日からでもなれるんじゃないかな?みんなはどう思う?

いさどん:
僕もそう思ったけれど、カトケンにも思うところがあるってことだし・・・。

カトケン:
では、今日から仮メンバーになってもいいでしょうか?(一同、拍手)

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こうして、木の花大人最年少メンバーは28歳のりょうちんから、24歳のカトケンにバトンタッチされました。

それから2カ月半が過ぎ、田植えの時期が訪れました。自らの希望で田んぼ隊チームに入り、木の花での初めての田植えを経験しているカトケンは、いつも嬉しそうに作業に出掛けています。「今、悔いのない生き方をしています。みんなと一緒に。では、行ってきます!」

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宇宙の仕組み

3月21日春分の日、いさどんとみちよちゃんがヤマギシの春日山に向かう車中にて話した内容をブログにまとめました。

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み:宇宙的に観た山岸巳代蔵さんについて、いさどんに聞いてみました。

い:昨晩は、今朝早く起きることを意識して、早めに床に着いたが、眠りにつくのに時間が掛かった。その時に、山岸さんの気配を感じた。最近、特講の時に始めた瞑想をやっている。特講のときに、咳が出たので特別室(一人部屋)にいて毎晩寝る前にやっていた。それは、太陽系神、地球神、それから地球の聖者達、宗教の教祖達などの名前を順番に挙げながら、そういった御魂がこれから力を合わせて地球人類を導いていくことを意識して行っている。この世界に存在する全てのものは意識を持っている。
銀河も太陽系も意志を持っている。その意志が我々を創造しているからこそ我々も意志を持っている。その意志に通じたもの達は、銀河や太陽系や地球の運行に関わっている。それがあるということに確信を持って呼びかけると、その呼びかけは、我々が対話するのと同じように通じている。しかし、信じない人にはそんなことは不可能である。すなわち、この世界は、その人の思いが、どのレベルかによって、それに相応しい世界に生きることになる。その意識レベルによっては、物理的世界の背景にある我々が見ることの出来ない世界に通じることができる。
今、そういった世界に通じる瞑想をしている。昨晩、1時半過ぎに寝ようとしたが、全く眠れなかった。その時に、今日の日の意味を思っていた。やはり山岸さんのことを思ったし、そこに彼がいるのを感じた。ということは、僕が考えていることを彼も考えていたから、互いの周波数が合っていたといこと。朝、そろそろ時間かなと思って目が覚めた。外はまだ暗い様子。もうそろそろ起きる時間かなと思っていた。7時に起きる予定だったけど、一向に誰も起こしに来ないし、目覚まし時計も鳴らないので、そのまま考え事をしていた。今何時だろう?と思って時計を見たら、5時45分だった。まだ時間があると思って寝ようとしたが、目が冴えて眠れない。その時に、やっぱり山岸さんの存在を感じた。ということは、僕の今持っている意識レベルに彼もいるということがわかる。そして色々な彼の残した書物、「実践の書」など資料を見ていると、彼には癖があって個性的である。人間としては、癖があるからわかりづらい人。そのわかりづらさの原因は、色々なところで、話の中にフェイントが掛かっているということ。フェイントというのは、あえて話をわかりづらくしているということである。そのわからないところで、あえて人々が考えていくように表現が打ち出されている。それで、ヤマギシ流世界を表現しようとしている。しかし、そういうわかりづらい表現をしながら、ポイント毎に目的の意思がしっかりと示されている。特に戦後間のない時代だったから、人々は争いに懲り懲りしていた。だから戦争のない世界、「仲良し社会」、それから物理的貧しさから「豊かになる」、そういったことを打ち出しながら、もう一方では、それを否定して、精神性の重要さを最後に置いている。常人ではわかりにくい巧みな表現をしてヤマギシズムの表現にしている。これは、普通の人間では中々やれないこと。単なる山岸巳代蔵という、情欲が深く、駆け引きのある人ではやり切れない。こういう人が普通に人生を生きたら、ある程度の財は成すだろうが、それを大盤振る舞いしたりして、そうしたものを無にしてしまったり、親分肌で波の大きい人生になる。そうしたことを考えると、ある意味超人的な人である。やはり宇宙人。少なくとも、僕の意識の周波数にいる存在。僕は今、宇宙を意識して生きている。それは、地球の外側に地球をつかさどる神界(神々の世界)というところがある。そこに所属する魂意識があって、それが地上に降りて、地球の意志として、人間の本来あるべき境地を語る位置、つまりインドのグル(覚者)の意識、そして今、日本で普通の人間として人々に語っている、これは宗教で言えば教祖的立場、それから、普通の戸籍で生まれてきた自分、そういう立場をいくつも持っている。山岸さんは、そういうことと同じような立場の人ということ。だから、ここのところではこういう人、ここではこういう人という風に立場、立場で色々な表現をする人であった。
山岸さんが書いたものを読んでみると、そこにヤマギシズムの中での夫婦について語っているところがある。夫婦というものを1組にして考えていくというものである。しかし、我々は既に夫婦というものを1組ではなく、一人の人間として独立して考えて行く考え方になっている。それは時代背景からして、次の時代の考え方。それは、夫婦という単位を否定していることではなく、既に夫婦単位で取り組む段階を超えているということである。これまでヤマギシでは、夫婦が1組で取り組むことでやってきたが、その中には相性とか縁を無視して夫婦にしてしまうという「結婚調整機関」と言う組織が山岸さんの発案として出されている。これ自体は山岸さんの発想なのだろうが、今ではそれが、色々な乱れや矛盾を生んできている。そういう時代に合わないものが、丁度彼が亡くなって50年。賞味期限が切れようとしている。本当にこれは賞味期限だと思う。だから、彼は僕のところに来て、僕の手を握って、バトンタッチしたことは、色々なことを調べていくと本当にそうだと思う。それで、今の僕の立場があるのだと思う。これからそれがどうなっていくかと言うことに対して、昨晩、彼と話をした。
仮に、ヤマギシを僕に託すとして、「一体全体、この理念にほれ込んで、踏み込んだのは良いが、理念だけに没頭して個々の人間を磨くことを忘れてしまっている人々をどうやって、導けと言うのか?あなたはどう考えるのか?」と問いかけをした。
そうしたら、「人間の世界は、こちらの世界(彼が今いる世界)に比べると時間が掛かりますが、流れはできておりますので、しばらくこのままよろしく」というようなことを言われた。
まぁ、そういうことなのだろうな。大本教の出口王仁三郎聖師にそういう話をしても同じことを言う。でも考えてみたら確実に時代はそちらの方に進んでいる。だから常にスタンスとしては、目の前に起きることをやっていく。一切戦略を持たない立場で、今日もいる。先にどうなるだろうと考えたら、私心が入ってしまう。

み:話を聞いていていくつか質問がある。今のヤマギシは日本の縮図的なところがあると思う。戦略的で対立があり、鬱の人がいて、自殺者がいて、と言う風に、日本社会が凝縮されている感じがある。いさどんは、今年からおやじの館を正式にオープンして自殺者を減らそうという話をしていたでしょう?でも、最近来るケアの人たちは、ヤマギシの人たちが多くなってきたよね。そこを手始めに、日本全体の問題も解決されていくのかな?それは、ヤマギシから来るケアの人たちへの対応を通して出来た実績を元に、日本全体の問題にも、ノウハウが応用されるような印象を受けたのだけど、その辺はどう思う?

い:その質問に対しては、わからないから答えない。それは、この国の未来が、そして世界がどうなっていくかは、僕の思考や興味を超えたものだからだけど、僕が5月3日の葬式(生前葬)後に一番大切にしていくことは、自殺者をなくす活動をすることは事実。これは、そういう風に決意していることだし、それがこの国にとって最も大切なことであって、最も難しい問題。昨秋にヤマギシに出会う前は、対象は一般の人だった。そういう人たちが口コミで来るのだと思っていた。そうしたら、ヤマギシとの出会いがあって、今、こういう話が進んでいる。ここで事実として挙げられることがいくつかある。ヤマギシは日本社会の縮図であり、そして日本という国は調和の高い理想の国だが、現実には全くそこが生かされておらず、精神性より経済的な発展を優先させてきた国であり、本当にヤマギシは、そのミニ日本。そこに凝縮して自殺者やうつ病が出ていると言うことである。そして、それが改善されていくと、そこに実績ができる。ヤマギシの中の実績が、今度はヤマギシの中でそういった改善のケアが出来るようになる。そのためのノウハウは、全てヤマギシに伝えられる。あの人たちのように心一つで団結できる人たちは、それこそ色々な分野の人たちがいるから、それをマスターしたら、将来には統合医療の見本となる可能性がある。それは、新たなヤマギシの社会貢献に繋がることになる。そうすると、今、ヤマギシは世の中から偏見を受けている状態にあるが、それは世の中にもう一度認められるチャンスでもある。それがどこから来たかというと、木の花であり、僕がきっかけでもある。そうすると、我々の取り組みも、そこを通じて広がっていくことを考えると、昨秋、ヤマギシとの出会う前に考えていたことは、ずれていることではなく、僕が予測していなかっただけのことで、ヤマギシを通しても、それが広まっていくことになる。ばらばらで取り組むよりも、ヤマギシがこれからそれに取り組んでいくと、集中的に色々な実験もできる。だから僕は想像していなかったことだが、これは与えられた道かと思っている。そうすると、今回の春日山行きの目的は、柿谷さんとの話だが、その後に、現在預かっているヤマギシからのケアの人たちの話もあるから、春美さんやよりどんたちと話をする。その中で、この話は出る。そしてこれから、そちらの方が大切な取り組みになって進んでいくだろう。しかし、これは見通しであり、ヤマギシの人たちの心にかかっていることだから結果は常に決めない。

み:ヤマギシのピンチをチャンスにという感じがする。

い:どんなことでも、全て活かすつもりになれば活かせる。それを問題ごととして決め付けてしまえば、問題ごとで終わってしまう。しかし問題ごとは確実に活かすためにある、それを活かさない限りは目の前にあり続けることになる。

み:今、ヤマギシは結構畜産系の仕事が多いでしょう?やはり世界的な動きや環境のことを考えていくと、そうした畜産系の仕事は環境に負荷が大きいじゃない。

い:環境に負荷が大きいことも勿論だけど、畜産というのは、経済ベースで捉えると農業経済ではわかりやすいが、エネルギー的にすごく非効率である。そして何より人間の心を食としてそそる。人間の心をそそるということは、心を躁的にしていく。それは、収めしずめるのではなく、激しく活性する効果がある。経済効果を目的の人たちにとっては、魅力的なものである。これからの時代を考えると、そのところがどうかということになる。畜産自体が経済効果が高いから進められるけど、それ自体が地球環境や人間の精神性にとっては良くないということで、見直していく必要があるのだが、そのことにいつメスを入れる決断をするかということについてだが、それは霊的なことにも深く関連する。現在、木の花では光の瞑想をしている。我々人間が、どれほどたくさんの無念の魂を地球上で発生させているかということを理解する必要がある。その魂は確実に地球の霊的な環境を汚染している。それを浄化するとしたら、まずは発生源を断たなければならない。それこそイヌイットなどネイティブな人たちが生存のために動物達の命を食べていくことは、全く問題はない。それは命が伝播されているだけで、自然界のシマウマとライオンの関係と同じである。ところが、現在の人類の営みの中で、畜産の現場で起きている命の扱い方を観たときに、膨大な数の無念の魂を生み出している。それは見えないところに、大きな影響を与えている。ヤマギシが特にこの社会の縮図として負の部分が多いのは、動物をそういう形で屠殺していることが大きな原因でもある。いつここにメスを入れるかということは大きなことであり、勇気のいることである。そのことは、何よりも重要だが、結局はハードルの低いところから取り組んでいくから、重要なことは結局最後になる。本当は気付いたら、重要なところからサッと取りかかると他はあっという間に切り替わっていくのだが、一般的には下から順番にやっていくわけで、どちらになるかは、結局は上(神界)の意向であり、そこでもヤマギシの人たちの心意気にかかっているのだから、僕は知らない。今僕に必要とされていることをやっていきながら、僕自身も結果をもらいながらやっていくということになる。

み:ふと思ったのは、どこかの小規模な実顕地の1つを、実験的に健康上の観点からベジタリアンにしてみて、例えば、成人病(糖尿病や精神疾患)の人たちがどのように改善されるかを実験データとしてきちんと取って、それを活かしていくと、霊的なという話がヤマギシの人たちにわかりにくくても、健康を改善していくという切り口であれば、結果を見ながら、他の実顕地でもそれを取り入れていくことは出来るのではないかな。

い:霊的なというとわかりにくいが、人間の心も霊的なこと。そうすると人間が対立的、疑心暗鬼、悩む、愚痴る、そういうことも全て霊的な作用なわけで、肉食や屠殺による影響でそういうことも生み出している。そこの重要さをまず知るということ。いつ頃それに気付き出すかと言うことだが・・・。
どこかの実顕地でそういった取り組みをすると言うのは、すごく良い提案だよ。本来、ヤマギシ自体が試験場だから、どこか手ごろな実顕地でそういう取り組みをして、モデル化する。それは大いにやるべきことで、今後、何かの形で提案をしていくと良いと思う。ヤマギシと昨年出会ってから、いくつかの問題点が見つかった。例えば、特講の内容にしても、青本すら、日本語だけど、もう古くてなじめない日本語になっている。もう50年たっているから賞味期限が来ている。これからの時代に合うように直す必要がある。そうすると当然研鑽学校の内容も変わってくる。そういったことをやろうという一部の人の機運もあるが、さて、いつ頃これをやりだすか?というところである。もうやらなければならないことはわかっている。だけど、やらなければいけないことはわかっているけど、ヤマギシの人々の中に「けど・でもウィルス」が蔓延していて進まない。全人幸福という大儀に向けた、零位に立つ心の覚悟ができていない人が多い。
このことは霊的には、山岸さんに伝えている。「あなたの責任上の問題として、いつそれがなるのか?」と伝えると、「我々のところ(神界)では、それはすでに成っていることですが、人間の世界では時間が掛かりますから。」と返ってきた。
改革ということをもし必要とするならば、もう取り掛かっていかなければならない。これを我々から投げかけるという点では、今の話はすごく良いね。健康とか、環境とか、新しいモデルとかをいくつかのテーマとして、それを実際に顕現する、つまり実顕地(実験地)として一つ指定してやろうという提案は大いにしていくべき。

み:特講に行く前に春美ちゃんからもメールが来たときに、「ヤマギシも食生活を見直していきたいから、相談に乗ってね。」って書いてあった。わたしはそういうことに興味があるから、いくらでもそういう話をしましょうと言っていたが、その後進んでいない。今日、また春美ちゃんとも会えるから、そういう話をまた出してみようかな?

い:春美さんにはそういう意向はあるみたいだが、中々きっかけがないと難しい。あの人たちは、きっかけがあればやると思う。そうすると任しておくといつまでたってもやらない可能性もある。

み:じゃあ、きっかけは木の花が作ってあげるのがいいのかな?

い:そこらあたりが、色々なんだよね。きっかけを木の花が作りすぎると、ヤマギシの人たちって、プライドが高くてへそ曲りなところもあって、自負心が強いから、「俺達には高い理想があるのに、何でよそからそんなものをもらわなければならないんだ!」と言う風になる。だからやはり、自分たちで研鑽して立ち上げたと言うことなら、納得する。今の中央本庁の一部の人たちが動かしていることに対してもみんなで不満を言っている。そういう意味では、全体に投げかけてどうするかを、みんなで出し合って研鑽する。我々はきっかけの提案はするけど、取りまとめはしない。それとも本庁ではなく、新しいプロジェクトチームを立ち上げて、そこが投げかけるのか。何しろヤマギシの内部から投げかけることが大切だと思う。そして、そのきっかけは木の花でもいいと思う。

み:前から聞いてみようと思っていたんだけど、いさどんは金星から来たのでしょう?そうした宇宙的な目で見たときに、山岸さんとかはどこから来たのかな?って思うのだけど。

い:僕の感覚では、山岸さんは金星から来ているのだろうと思う。だから周波数が僕と合う。これは確かではないけど、ほぼ間違いない。

み:それはいさどんの肉体が無くなって、宇宙に戻ったときに同じ星から来たってわかるの?

い:肉体が無くならなくても、これからこの流れが進んでいけばいずれ分かると思うよ。でも、そのことについては、肉体が無くなったときに、わからなくたっていいんじゃない?僕は今、自分の中で、とりあえず金星のことは大きな意味を持っていないと思っている。僕は、銀河全体のことを今は考えているから、先は銀河の旅に行きたいと思っているくらいだから。とりあえず太陽系のことは、今までの自分のグラウンドだったからね。何となく感じるのは、今回こうした役割をもらってここに来たけれど、役割を果たすことによってこの太陽系というところから自分が解き放たれて、次のフロンティアに旅立つのだろうというイメージを持っている。それで、人々(地球人)にとっては、こういうことはとんでもない絵空事のように思うかもしれないけど、実はこれは真実なんだよ。人間の想念と言うのは、全てこの世界の現象の背景にあるものでしょう?人間があんぱんが欲しいと思えば、あんぱんを創り出すのだし、鬱的なネガティブスパイラルを持っていれば鬱が発生するのだし、全部そういう風に想いによってなっていることが理解できたら、今僕が語っていることは事実だよ。
ただ、肉体に縛られて、そこからしか物が観えないと理解できない。この間、僕は金星の精神性の完成度について話をしたことがある。そうしたら杉山開知君(地球暦の開発者)が来て、金星が太陽系の中で最もバランスの良い星、ということを彼が伝えに来た。そうやって真実は必ず証明されるわけだ。だから真っ直ぐぶれない想念をもって表現しきると、常に真実の上を歩んでいくことになる。

み:地球が未熟だから、今、色々な星から色々な魂が降りてきているの?

い:それがね、僕も一時そういう風に考えていたのだけど、この間の開知君のデータを見るとね、水・金・地・火は、硬い岩石で出来ている惑星だということだった。そして太陽は全く異質のものであり、太陽系全体をまとめつなぎとめる役割、太陽系そのもの。その次の木・土・天・海・冥はガスで出来ている星だと言っていた。そうすると、木・土・天・海・冥は水・金・地・火とは違う役割のものなんだよね。そこにも霊的世界がある。それは役割が違う霊的な世界だと思う。そして水・金・地・火は、地球人類のような霊的なものを持っている。その中で、水・火については、ぶれが大きい。特に水星のぶれが大きい。地球はそれに対して、どちらかというと金星に近くぶれが少ない。金星はみごとにぶれが無い星であるけれど、地球は微妙にぶれている。この人類のぶれを、ここの世界で見ていると、本当にわからん連中だなと思う。そして、ヤマギシをこの世界の縮図だとして見たときに、ヤマギシの人たちはいがみ合っているけれど、ちょっと大事を伝えるとすぐに気がつく。それと同じことを地球人に感じる。人間たちも戦争をやっているけど、痛い思いをすると気づくというレベルだと思う。この太陽の周りを回るぶれはほんのちょっとだけなので、意外とアホそうで、アホじゃないと思う。でも、これは太陽系の多様性なのだろうけど、水星とか火星のようにぶれてしまうと、これはもうどうしようもないじゃない。そうすると金星がひとつのモデルで、地球はそれに近い存在。その近い存在に、肉体と言う物質を持たせ、セットにすることによって何か実験しているわけだよね。だから、地球というのは、さっき話をしたヤマギシのどこかの実顕地において、問題点を改善するための実験場という意味合いもある。ヤマギシでいうならば、実顕地のようなもの。そういう風に捉えると面白いと思う。
今まで僕が思っていた印象の地球は、幼いという捉え方をしていたけど、意外と地球は幼いのではなくて、それは観えていないから幼いだけであって、観えたらたちどころに目覚める存在。そうすると、土星とか木星とかの外側の星は、地球のぶれに影響を与える存在。つまり、木星であれば木星の表現がある。土星自体も、それ自体が複数の霊的な魂のかたまりとしての特徴を持っている。例えば、人間の魂だったら、肉体の中に入れてやると一人の人格が出来あがる。そういう種類の魂の分類からすると、木星以降の魂の分類と言うのは魂のパーツのかたまりなのだろう。

み:パーツ?ちょっとわかりにくいんだけど?

い:一人の人間は、百八つの煩悩(カルマ)を持っていて、その組み合わせによってその人を表現している。そうするとその土星以降の惑星の霊的な表現は、百八つのなかのパーツ、つまり、愛とか怒りとかが部品のように個別のカルマとして分類されてあるのだろうと思う。わかる?

み:じゃあ、一つの人格的組み合わせになっていないということ?

い:一つの人格のように組み合わせになっていなくて、パーツごとにそこに存在している、いわば倉庫のようなもの。それが、惑星のラインが整ったりすると、太陽の刺激によって、そこから邪悪なものが地球に降り注いだりとか、愛が降り注いだりとか、人類が戦争を始めるとか、ヒットラーみたいなものを存在させるとか、そんな影響を与えているのだろう、そういう捉え方をするようになってきた。
だから水・金・地・火と木・土・天・海・冥はタイプが違うんだよ。

み:それぞれ今、地球に来ている魂は、目的が違うの?

い:地球に存在している魂のほとんどは、元々地球由来の魂で、太陽系の第三惑星を、現在の地球にするための地球化計画に基づいた目的が最初にあったはず。そうすると、地球のために生成された魂と、それからそれを指導するための役割の魂という分類はある。だから、元々、地球化計画のためにつくられた地球人類、肉体人間のレベルだけではなく、地球には霊的な状態で存在していて、外から刺激を与えて地球の運行を支えているものもあれば、まだ未熟なものとして迷っているものもいる。それが受け皿としての肉体に入って、肉体人間として地上にいるものであるから、人間には色々な魂の形態がある。

み:では、指導的な役割で来ている魂は、金星から来ているの?それとも他の銀河系の星からも来ているの?どれくらい広い範囲から来ているのかな?

い:指導的と言ってもタイプがある。現人神のように人間の肉体に入って、役割をする為に来ている魂は、金星からだけだよ。それ以外に、霊的なメッセージとして、他の星から、これは太陽系だけではなく、他の銀河からもチャネリングのような形で人類にメッセージを降ろしてきているものもある。だから、肉体人間として降りてきているのは、殆ど金星からだけだと思う。後は、太陽系の星々からパーツとして、いわば原発事故があったときに放射能が降って来るのと同じように、太陽の活動の結果として、他の惑星から霊的な作用が地球上に降ってきて、それが人間に影響を与えて、人間の世界の中の争いであったり、調和だったりという様々な作用をもたらしている。

み:他の星からのパーツを降らせる、降らせないという、その辺の采配は、やはり宇宙の意思?

い:大きな捉え方をすればそうだけど、厳密に言えば、それは太陽の意思だろう。だって、ここの世界は太陽系だもの。太陽(光)が元になって命が成り立つ世界だから、太陽が全ての惑星の心臓部、魂で言えば丹田だから、これは太陽の意思だよ。太陽系の範囲は、太陽の光が届いて、太陽のご意向によって成り立っているわけだから、これは当然のことでしょう。

み:じゃあ、わたしたちが神さまとか光をイメージするときには、太陽のイメージをすることが多いのだけど、それは、そういうことから来ているの?

い:そう。全ての元は太陽の意思だからね。

み:でも私が感じてきたのは、いさどんが言っているところの神というのは、それよりももっとずっと大きいものだと言う印象があるのだけど、そことの違いを話して欲しい。

い:太陽系をつかさどる神は、守備範囲としてあくまでも太陽系を任されている。その外の天の川銀河とか、さらにもっと大きな広大な世界をつかさどる神という存在も同然ある。それは、役割分担というか守備範囲のこと。今、僕が知っている天(あめ)の〇〇と言った「天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)」とか、「天之常立命(あめのとこたちのみこと)」とか、仏教的に言うと大日如来とかは、全て太陽系をつかさどるもの。一般的に地球人が認識していた宇宙は太陽系のこと。しかし近代に入って、人類がこの世界を物理的に解明していった結果、太陽系の外に天の川銀河があり、更にその外に広大な宇宙(銀河群)があることがわかってきただけのことで、我々が霊的な影響を受けて、人格を含めた生命の仕組みを一つの法則としていただいているのは、太陽系が基準になっている。これは、一つのいわゆるコミュニティで、大きなコミュニティが銀河だよね。だから銀河は、地球で例えると国家のようなものだ。国家の中にあるコミュニティが太陽系で、木の花やヤマギシは、地球上の国家に当たるものになる。更に外に、宇宙と言う世界があるわけでしょう?

み:ふと思ったのは、太陽系が小さなコミュニティだと言われると「へぇ、そうなんだ」と思う。今のこの立場から言うと、地球だけでも世界全体で70億人の人がいて、相当大きなコミュニティだなって思う。でも、今の話のスケールに思いを馳せると、次の社会を作るための代替的なエコビレッジのような活動をしている人たちの中で、世界で活動している人たちはほんの一握りで、一歩海外に出てそういう人たちと会おうと思うと、みんな繋がっていて友達。数えられるくらいしかいない。案外小さいんだなと思う。そうやって考えると、太陽系が小さなコミュニティだなというのは、すごくよくわかる。わたし達エコビレッジ関係者の人たちの背後にも見えない広大な世界があり、その存在の全てを含めてコミュニティなのだと思うと、何となくイメージ的にわかったような気がする。
い:エコビレッジの運動をしている人たちは、何故そういう考えを持ったかということ。背景として環境を無視している人間のあり方や、人が繋がらないで対立しているような不幸があるからでしょう?その不幸があるからこそ、そこでエコビレッジ運動をする意味がある。ところが、金星のような世界は、既に完成されているのだからそれは必要がない。そこで僕は問うた。「この世界はあなたの意志によって動いている世界です。そうすると、人間は全てあなたの子供と言えます。ところが人々の歴史を見ると、血で血を洗うような歴史が営まれてきました。子の出来の悪さは親の愚かしさ。弟子の出来の悪さは師匠の力量不足とも言います。あなたはもっと優れた魂を地上に降ろし、もっと完全なる世界を創ればよかったのに、なぜこのような未熟な人間を地上に降ろしたのですか」と。それに対して神様が答えられました。「私はこの世界において唯一ひとつのものである。それは完全なる世界と言える。それは私だけの世界である故に、孤独な世界でもある。私にも食べ物がある。それは喜びである。喜びが私の食べ物である。私一人の孤独な世界では、絆もなく愛のない孤独な世界である。それ故に、光には闇を、善意には悪意を、愛には孤独を、調和には対立など、それら私の存在と反するものを生み出し、私の存在の表現とした。それにより、私の世界にいのちが生まれ、悪意から善意へ、孤独から愛へ、対立から調和へといういのちの流れが生まれ、その流れの中からこの世界に喜びが生まれるようにしたのである」と。ということは、今の社会に問題を感じて活動をしている人たちが、現代社会のあり方に対して間違いだと言うこと自体が、神の意思に背いていると言うことでもあるということだよ。わざわざ問題を作って変化を持たせたのだから、それを「問題だ、もっと理想の世界にしろ」という主張は、ある意味、この世界の多様性や自然の流れに反することになるわけじゃない?でも、背いているわけではないのだよ。問題を作ったのは、それを改善していくことによって、そこに喜びを発生させると言うメカニズムが目的なのだから、問題を作ったままにしておくのが目的ではない。問題を作るのが目的だった、更にそれを改善していくのが目的だった。改善して、更にそこに喜びを発生させることが目的だった。ということを考えると、問題自体もそれをノーだと言って、反対して騒ぐ人たちも、やがてそれが改善されていくことも、全てプロセスの上にある。つまり全てが目的で、順調よく行っているというわけだよ。
そうすると、我々は何をやっているかと言うと、争っていることも、調和していることも全て神さまの意思なんだよ。道代ちゃんがさっき、「自分から見たら70億の人間とか、地球から見たらこのコミュニティが巨大だと思った」と言っていた。それは、道代の物理的スケールと魂的スケールを基準にするからそうなってしまうのだよ。ところが、そのスケールを一回ご破算にしてフリーにこの世界を観て行ったら、僕の話なんか簡単に理解できる。

み:いさどんの話を聞いていると、その通りだなって思えるんだけどな。

い:ところが道代のスケールに戻るとそんな風になるんだよ。そこが、人の心が自由自在になれるという証拠なんだよね。そしてもう一つ表現していた、この世界の善悪、例えば、今までのようなあり方、ヤマギシで言うと拡大路線とか、人類が物理的な進化の延長に、偏ったテクノロジーの発展を進めてきたことも含めて、それ自体が曲がり角に来ている。しかし、その前の貧しい時代からしたら、それは問題ではなく、産業革命というテクノロジーの夜明けを迎えることになった。それは200年~300年続いた後、今、次のステージに進もうとしている。そうすると、その背景により物事の基準が変わるから善や悪になるだけのことで、善悪などはこの世界にありはしない。だから人間がいつでもフリーに、今出会っているものは何なのかを理解していければ、たちどころに問題ごとは消えていく、そういった自由自在の世界にいるということになる。しかしそれが人々にわかってしまうと、痛みを味あわせては、そこを乗り越えることによって喜びを発生させ、神さま自身も喜んでいるという、神さまが人間に対してゲームを仕掛けていることがわかる。これってゲームの世界でしょう?バーチャル(仮想的)に作っては、勝った、負けたと言って喜んでは、またご破算にして、ゲームをやっているようなもの。それがわかってしまうと人間は、人間の側でなく、神の側(宇宙の仕組み)に立つことになる。

み:なるほどね。最近、自分のトピックとして、二元論で考える自分がいて、何でも「良い・悪い」で判断していることに改めて気付いて、そのどちらかに分けようとしている自分に気付いた。それにはどちらもそれぞれ長所・短所があって、本当は決め付けられない。しかし、今、いさどんが言ったように、その背景や状況によって「こうだ」と決め付けてしまいたがる。そこに何があるかと言うと、決め付けることでそこに「安定」みたいなものをもたらしたいと思っている自分がいる。でも、そこに安定を求めていくと、水が流れるような自然な動きが無くなって、澱んで腐っていく。だから、宇宙は本来そういう風に出来ていないということだよね。

い:宇宙は限りなく循環し、巡りめぐって変化する。それは、一定のものであって、特定のものが繰り返し回っているだけの世界。その循環して巡りながら変化することを「生命」と言うんだ。だから、我々もまさしくその中にいて、自然に帰ったり、自然から戻ってきたり。大きく捉えると、それ自体が自分なのであり、一つの生命であることがわかる。
(宇宙=生命=循環して巡りめぐって変化するもの、増えもせず減りもせず)

み:だとしたら、人間が安定したいと思うその心って何なんだろう?

い:それが、自分への執着なんだよ。だから二元論って言ったよね。この世界は究極の二元の世界なんだよ。つまり、陰と陽で出来ていて、すごく単純さ。そして我々は自分と言うものが無い限り、こういう解釈はできないわけだ。お釈迦様も「自分と宇宙」、「自分と世界」という対比でこの世界を観たんだよ。それは、自分が無い限り、この世界もないんだよ。究極は自分とこの世界が対等、すなわち「自分=宇宙」であって、自分が無くなれば宇宙もなくなるという世界。だから、自分という存在を持っているところに、それがあるわけで、自分を越えたものに、それは無いわけだ。

み:ということは、宇宙を観たいと思っていると、その安定を欲しいと思うのね?

い:いいや、自分を発生させると安定が欲しいと思うわけだよ。自分という基準があると、自分の心地良さや自分の納得とか、自分で測るということになるものだから、自分の範疇の中にこの世界を置いて、特定して観ようとするわけだ。それで、自分を消せば消すほど、自分のスケールは大きくなっていくわけだ。例えば、自らを「自分」という特定にする、「家族」という特定にする、組織だったら「木の花」という特定にする、それから、「日本」、「人類」、「地球」、「太陽系」という風に特定するでしょう?そして「銀河」「宇宙」、それを「全体」と特定したら、「自分」の存在は消えていくわけだよ。つまり、自分という認識は、いくらでも増えたり減ったりするわけだよ。その意識がどの位置にあるかによって、対するものに対して特定しようとする欲求が生まれてくるわけだよ。それだけのことだ。それを自分を持ちながら、かつ自らは宇宙全体という認識を持っていたら、これは、ある意味、究極の世界に踏み入っているよね。そういうものは最終的に、肉体を返上したときに宇宙にその魂が微細に遍満して、宇宙そのものになるのだから、そうなったときには、特定する人間とかには囚われないわけじゃない。それが、悟りであったり神との合一であったりする。
そうすると地球を掌る神がいるとしたら、そのレベルの神とは、地球に囚われているということになる。だから、どこに意識のレベルを置くかということで、道代ちゃんが、一人の人間としての「道代ちゃん」に囚われていれば、その位置の現象が明快にあなたの人生に現れるということ。

み:最近わたしも寝る前に瞑想をするの。それで、その時に繋がるのが自分のハイヤーセルフ(神我)みたいなものと繋がるようにしているのだけど、そうやって考えると、もっと大きな存在と繋がった方がより宇宙的に物事を捉える役割をいただく人になれるのだろうか?

い:確かにその通りだけど、その構造が知識的にわかったとしよう。その時に、自分の魂がそのレベルに達していないのに、想うだけ想って、「わたしはそういう意識に繋がりたい」という意識では、アンバランスじゃない?

み:それも、神さまからいただいたことではなくて、自分の作り上げているエゴみたいなところもある、とも思うんだよね。

い:そう。エゴ的、知識的。自分の意識のレベルということになるわけだから、それだったならば、そういうことは一切抜きにして、明らかにこの世界には秩序があるのだから、その秩序に向かって呼びかけたほうがふさわしい。変にその構造的知識を知って、そこの位置に自分をもって行きたいというのは、よく行者が自らの欲求を達成したいがために、裏づけにする守護霊とか守護神を降ろしてきて、その背景によって道を説いていくようなご利益宗教になってしまう。それは、求める人にとっては尊いものであっても、真理に向かっての道からは遠ざかってしまうことにもなる。

み:何か、それも意図的かなとも思って。だから食事の時にするお祈りでは、神さまのレベルはわからないけれど、「神さま、どうぞわたしをお使いください。神さまが使いやすいわたくしでありますように、お導きください」と語りかけている。

い:「常に私はそのようでありたいと思っているものです。どうか私を相応しい役割に使ってください」だよね。でも、使ってくださいと言っても、向こうからすれば、「始めからそういうものとして、わたしは使っておる。改めて頼まれるような話ではない」ということになるんだよ。
だから、わたしとあなたという意識が存在している限りは、まだ途上ということになる。「既にお前と私は一体であって、お前はわたしの意思によって相応しいところで使っておる。お前の認識している意識は、お前がそのレベルに保っているとも言えるが、逆に、わたしがそうしているとも言えるんだぞ。」
そのことを理解すると、それって「私が今与えているレベルより、上がっていったから、役割を上に上げようか」とか、全て神の意のままの話ということでもある。そうすると、人間の思考っていうのは、何だろう?ということになる。

み:そうなの。そこで、自分なんかいらないとしたら、今までの自分を振り返ると、木の花に来て日々、自分の心の中を観ていくことをやり始めて、自分のエゴがあったりして、気付いていくわけじゃない。なかなか自分で気付かなかったり、改善できなかったり、意識が上がらなかったりするけれど、それも含めて全部神さまが、「いつまでも意識のあがらない道代ちゃん」を作っているというわけでしょう?

い:そうすると、つまらないじゃない。我々に意思が無くて、全部神さまのマスターベーションになってしまうわけでしょう?そこでは神さまもひとりでゲームをやっているのだから、つまらないわけだ。そうすると、自分というものを分割して、「自分 対 〇〇」という相手を創って、自分の範疇を超えた遊びの部分を作る。それが、我々に与えられている自由なわけだ。それをどうするだろう?これは、実験室でビーカーなどにこうした世界を作って、そこに地球世界を培養して、さてどういう風にこれが繁殖していくかを研究して楽しんでいる。それこそ麹でも培養して、発酵具合を見ているような世界でもあるんだよね。だから我々には、神を無視して、神の存在を全く信じない、自分達だけの思考でこの世を作っているという人々すらも認められているということなんだ。それを無神論者というのだけど、本当にそうなのだろうか?あなたはこの宇宙の中の一つじゃない?ということに気付いた時に、もう神の手(この世界の仕組み)の中に無い存在なんて有り得ないということになる。この世界を広くおおらかに捉えると無神論者も神さまの手の中にあって、それは遊びの中に与えられているということになる。

み:そうするとその自由をうまく使うことによって、神さまを結構喜ばせることが出来るね。

い:その遊びがあるからこそ、我々は神を認識することが出来るのだし、人間というのは、神の領域まで到達することができる者になるんだ。神はこの現象世界(三次元世界)を創造されたわけだけど、どうしてこの世界を創ったかというと、その中の殆どの存在は、神の意のままの存在であるわけだ。しかし、人間は、そこの中で唯一自由意志を与えられたものとして創られている。中にはその元本を理解できない無神論者までいるわけだ。つまり、人間という神(命)から隔離して、神から意識が離れていたものが神に近づいていく、そのプロセスを人間に味合わせて、その喜びを神自身が味わっている。だから人間は神の名代として命を生きて、生命としての自らに気付いていくことを目的として生きているとも言える。それに対して、他の植物動物などの生命は、神(宇宙ルール)の意のまま、ルールに則って存在している。人間の存在も神の意思そのもの。最終的には、全てこの世界は神の意思そのものということ。そういう風に考えていくと、またまたつまらなくなる。だから神さまに聞いたんだよ。「この世界にあなたは遍満している。そのあなたの支配する宇宙はあなたの個性ですね。すると、あなたの隣には、あなたの個性とは違うルールの世界があるのですか?」と尋ねた。そうしたら、「それを聞いてどうするのだ?」と言われた。「お前は私のルールの中に存在するものである。その隣の世界があるとして、それを理解しようとして理解できるのか?」と言われた。「それは、理解できません。」と答えると、「では、理解できないものを聞いてどうするのだ」と言われた。「あ、不必要なことなのですね」ということになるわけだが、では、それに対して「隣があるのか、ないのか?」ということに対しては、「あるが、理解できないものである」と言われる。それをどうやって理解するかというと、この世界は全て二元で成り立っている。ということは、「この世界」を認識したら、この世界を存在されるもう一つの世界があるわけだ。それは、物理学でも常識のことである。

み:いさどんが言っている「この世界」というのは、太陽系だけではなく、もっと大きなものを指しているの?

い:そう、宇宙全体のこと。この神が掌っている世界。物理学でも極められない世界。そして、この世界が存在するということは、その対極があるからこそこの世界があるということになる。それは、想像の世界になる。この世界のスケールは、何百億光年という世界だと理解している。それは行ってみてわかっている世界ではない。そして、この宇宙世界を一つの世界と捉えたら、これを存在させる一対がある。これを陰としたら陽、陽としたら陰があるということだ。こちら側を離れて向こう側に行き、向こうからこちらを見たときに、初めてここの世界がわかる。そうすると、物理的には対極に行けるかどうか考えるわけだ。そうしたら「行けない」という結論になってしまう。光を越えて、この四十数億年の、我々の宇宙を超えた世界、その百何十億光年の世界を我々は認識しているわけだ。この我々が存在する太陽系や銀河を作っている四十数億年を超えた世界がある。それすらも理解できないのに、その無理解の更に対極があるとしたら、もうどうしようもない。お手上げだ。それで、物理学では、この探求については諦めたが、僕は諦めていない。そこで、これを認識するにはどうしたらよいかと言うと、この物理的人間を超越して、自らの思考が宇宙意識まで行ったもの、つまり神のいる側 — あってあるもの、無きて無きもの — そこの世界に合一したら理解は出来る。つまり、神さま(宇宙真理)と一緒になったら理解は出来る。しかし、そこまで一体になると面白くないじゃない。何にも無くなっちゃうんだから。その手前のところで銀河でも旅をしようかというところに今の思考が働いている。

み:でも結局は、一般のわたし達みたいに、神の世界と一体にとても成り切れない人たちこそ、楽しみがあるということでしょう?

い:そう!だから、金星のぶれの無い世界に対して、地球のぶれのある世界というのは素晴らしい世界ということになる。その時に、何で地球に完全な世界を表現しなかったのかを神様に聞くと、「完全は完全であるのか?」と言われて気付いた。ということは完全は不完全によって表現されるのであって、完全なる世界とは不完全であると言っている。完全が不完全からできているとしたならば、その完全の世界に不完全を下ろし、そこで完全を超えた完全を創った。つまり、地球という世界は、完全を超えた完全の世界だとわかった時に、何とすばらしい世界がここに創られているのかということに気付いた。

み:今の話は、地球のこと?それとも宇宙のこと?

い:宇宙とも言えるし、地球とも言える。それほどの配慮の世界を創られたとわかった時に、僕は、神様は今まで偏っていて未熟なのではないかと思っていたけれど、そうではなかった。その偉大さに敬服し大拍手を送った。
「素晴らしい!」

み:そんな風に思ういさどんって何者なんだろうって思うんだけど。

い:僕はいつも、そのように対話しながら遊んでいる。面白い世界だ。この世界は想念の世界。想念こそが世界を創っていく。この物理的な世界は、解釈によってどうにでも解釈が変わる。だから物理的な世界も面白い世界だよね。
先日の地震や津波でたくさんの人が亡くなっていった。死を迎えることは誰にでも確実に訪れることである。それは生の学びの卒業でもある。そして修行からの救済でもある。生命として存在することから生まれる苦痛からの救済でもあるのだよ。逆に言えば、津波にもまれながら助かった人もいる。大変つらい経験をして助かった人々。その人々が本当に助かったのかどうかとは、その後の生き方によるのである。人によっては苦痛の世界に逆戻りしたことになる人もいる。それはゲームのようなものでもある。死ぬも生きるもその人の心の持ち方にかかっている。そのことがわかると、自由自在に楽しみ、生きられる。だからどこの位置に心をシフトするかによって、この世界は、喜びでもあり、苦痛でもあり、どんな世界にもつなげられる。そういったところから捉えると、うつ病になってみるのも善し、喜びを感じるのも善し、もう好きなようにしなさい。自由自在の世界なのだから。そしてそこまで意識が行くと、いかに我々が自由な世界にいるかがわかる。自らを特定してしまうと、たいへん不自由な世界に生きることになる。

み:わたしの心の癖だけど、ふと思ったのは、「あぁ、いさどんくらいに思っていたら、神さまは可愛くて仕方ないだろうな」って思ったの。

い:過去に僕がまだまだ目覚めの途上のころには、苦痛を感じたときに、「私に与えられたこの問題は何ですか?これをわたしに与えて、どうされようと言うのですか?」と想い、上を観上げると、いつも神様は「何も問題は無いぞ。滞りなど、どこにも無いぞ。全て順調にいっているぞ」と言ってニコッと笑っている。「そうですね、それを理解できない私がいるのですね」という対話をいつもしていた。ウッとして上を観るたびに、滞りなどどこにもないと癪に障るくらい、いつも言われていた。その当時は、神さまとのゲームにいつも負けていた。ウッとして上を観て、その存在に気付いたときには、「あっ、このゲームを引き分けにしよう。」と思うようになった。

み:わたしが思ったのは、いさどんみたいに出来のいい人は、神さまは可愛いだろうなと思ったの。でも、わたしやみんなみたいに色々と問題を抱えている人たちは、どうかな?って思ったときに、「あぁ、それでも神さまは愛してくださっているな」とすごく思ったら、出来の悪い子ほど、神さまは喜んでくださるなと思った。

い:だって、今ここにいる道代っていう存在こそ、神の目的そのものなんだよ。僕のようになると、心が通じた人ということになるけど、「おまえは、だんだんわたしの方に意識が近づいてきて、ある意味では、わたしの目的から外れている」つまり、僕のようなものが増えてきたら、この世界を創っている意味が無いということにもなる。

み:つまらなくなってしまうよね。ということは、わたしのできの悪さも神さまを喜ばせるという意味では、大事なの?それで、開き直っちゃいけないけど。(笑)

い:そうそう。それでも神様は、苦痛ばかりの中にいて、その意味が全くわからない人も、神さまが創られた仕組みの中の出来事として認めておられる。出来の悪い人ほど可愛いっていうじゃない。

み:うちにケアで来ていて、時間が掛かりそうだなという人たちが、どんどん変わっていくよね。それは、何かある意味、神さまが嬉しいと思うような感覚を、わたし達も味合わせてもらっていると思う。

い:そう、だからそういった人達が木の花に来ることは、我々のためなんだ。我々が何かしてあげているのではなくて、それが我々の存在の生きた証なんだ。してあげていると思っているうちは、まだまだ本当を理解していない未熟なものである。

み:今回、ケアのサポーターをさせてもらって、すごくそれを思った。楽しかったし、すごくありがたかった。

い:僕なんかいつも思う。この人は何でわからないのか、僕の言うことを聞きさえすれば、たちどころに良くなるのに、と思う時がある。何でこの人は自分の矛盾に気がつかないのかな、と思ったときに、この人はこの人で役割として、それを表現しながら歩みとしている。だから、治らないのもプロセスということになる。そうすると、場合によっては、治すことばかりが良いわけではない。だからといって、治さないのも良くない。という我々は大変面白い世界にいる。これは何なんだ?物事の奥にある意志を観る、表面に見える形に囚われるなということ。

み:それも全てお任せしなさいということ?

い:それはそうとも言える。しかし、お任せしてしまうと変化がなくなってしまう。だから結論が出せないところに、我々は存在しているわけだ。山岸さんの青本を読んでいくと、そういうところが出てくる。物事を特定してはいけない。色々なものがいて、それで良いのだとする。でも、この世界に問題ごとはたくさんある。昔は貧しかったし、そうするとその貧しさは解決しなければならないが、どの落としどころが正しいというところにあってはいけない。それを特定したら道は外れる、と彼は言っている。この方はそこの意識レベルの人だから。そして彼は、そこへみんなにおいでということを言っている。行ったらわかるぞ、行かなければわからんぞ、という世界。

このことをなかなか世の中に出せなかった。今回のこの旅はひょっとしてこの時間が目的だったのかもしれない。最近、僕の中にフラストレーションが溜まっていた。出版のプロジェクトも滞っていて、自分の中にあるメッセージが、出せないでいた。これも全て神の意思。しかし僕の中にはさらに色々あるのに、何で出せないのか、とフラストレーションが溜まっていたところだった。
今回の旅は、当初陽子ちゃんが出張するつもりでいたが、結果は陽子ちゃんではなかった、道代ちゃんと行くという風に考えていたら、みかちゃんも行くと言った。みかちゃんに行きたい心があるのならそれもいいか、と思っていたが、結果として、みかちゃんは行かず、二人だけだった。道代は来るけど、向こうの録音だけのつもりで来るのだろうか。僕は車の中の話も重要だと思っていた。そうしたら用意されていた。だけど、その心構えを道代ちゃんがしているかどうかは、僕にはわからなかった。そして道代ちゃんはその大事を心得ていた。そして、そのことで質問もあると言う。そしてこの場が持たれた。それで、僕のフラストレーションも解消した。

み:良かった~♪わたしにはわからないけど、自分が役割として行くと言ったけど、果たせるのか疑問に思った。だけど、どう考えても陽子ちゃんが行けなくて、この役割は運転のことも含めて、わたしが行った方がいいと思った。

い:運転などは、神さまに任せていると全く疲れない。自分の肉体の中に神の意識が入って、そうすると一応ハンドルを握っているけど、さっきからずっとここまでの間、全く運転している意識が無い。あぁ、こんなところまできちゃった。

み:いいなぁ、わたしもそんな風に運転できるようになりたいな。わたしもしてみようかな。

い:一応、もう少し行くと御在所サービスエリアだから、そうしたら道代ちゃんに代わってもらわないとね。ヤマギシの人たちには、いさどんは運転が出来ない人という認識を持ってもらう必要があるから。それは、いさどんが何者であるかという認識を、とことんわかってもらわなければならないから。

み:この間の電話での会話の様子を聞いていると、よりどんはわかっていないんじゃないかな?

い:でもそれは、同時に僕も充分自分のことがわかっていない。それは、時間と共に、自分の言葉に出会うと共にわかってくる。そういう状態だから。

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まだまだです!は順調な証

2泊3日の滞在ですっかり病気が良くなり元気になったけいくん(詳しくは、「2泊3日の滞在でも」をご覧ください)。そのけいくんから、「僕はもう元気になったから、今度はお姉ちゃんの番だよ。お姉ちゃんが木の花に滞在してきたら?」と言われたお姉さんのゆうちゃんが、ここで1ヶ月と少しの間ケア滞在をしました。今回のブログでは、ゆうちゃんのケア滞在記と「主治医」であるいさどんからのコメントを紹介したいと思います。

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「木の花ファミリー ケア滞在記」

2011年2月の中旬から40日間、木の花ファミリーでお世話になりました。最初は弟の病気の相談で弟と母と一緒に木の花ファミリーに来たのですが、私には何かがあり、色々と行き詰まっていたのです。それで、私は木の花ファミリーにケアをお願いすることに決めました。きっかけだった弟の方は、いさどんと面談をして数日滞在しただけで、すっかり統合失調症が良くなりました。だから、自分の方も簡単に良くなるものだと甘く見てケアを受けたものの、なめていた自分がいて、本当に滞在中は苦しみました。

そんな中、ファミリーの人たちは毎日温かく優しく接してくださって、私のうつ的な状態を全身全霊で治してあげよう!という気持ちがいつも温かく伝わってきて本当にありがたかったです。しかし、その反面、私は我が強くて自分のことは棚に上げ、「人を正したい、自分はいつも正しい」という思いがありました。他人の言うことを素直に聞けないので、同じくケアで滞在している人に怒りを感じたり、おせっかいをしてみたり、ケンカをふっかけたりと、以前からの癖がここでも繰り返し出てきました。ファミリーの優しさに心を閉ざし、「早く家に帰りたい」と思ったことは何度もありました。こんなに長い時間をかけて自分の心をみつめる機会はなかったので、挫折して逃げ帰りたいと何度も思った自分でした。そんな我の強い自分も、「自分のやり方で良くしたい、治したい」という思い(この考え方は私の昔からの癖)も滞在中にとうとう底をつき、苦しくて号泣していた時に、やっと主治医であるいさどんの厳しい言葉が心に素直に入ってくるようになりました。親にも言われたことがなかった自分なだけに、直したほうがいい性格上の癖をいさどんに言われた時には辛くて受け入れがたかったです。しかし、そこを受け入れたら、病気になるほど頑固で見栄っ張りでかっこばかりつけていた自分に気がつきました。そうやって自分を正しく捉えることが出来た時に、いさどんの愛情を感じることが出来るようになりました。

その後は毎日作業が楽しく、自分が思っているより自分が小さい器で、情けないところが沢山あることを受け入れたら、ファミリーの人たちと自然の中に囲まれたここでの暮らしが本当に楽しくなりました。毎日目の前のことを集中してやっていく。無駄な考えが湧けば切り替えて、目の前の作業に集中することが健全な心なんだと教わりました。歌をうたって、笑って、みんなと食事をして、クタクタになるまで畑のお手伝いをさせてもらって、美しい富士山や木や花を眺める日々がいただいたものだと思えて、幸せな気持ちをいっぱい味あわせてもらい、いつのまにか苦しい道を抜けて、豊かな心をいただいていました。ここに来る理由となったのは家庭環境のトラウマだったのですが、木の花ファミリーで教えてもらったことは、苦しかったトラウマ時代も実は私にとって必要な経験であったこと。来るべきタイミングがやってきて、木の花のみんなに助けてもらえたこと。すべて与えられ、必要な経験だったのだと学ばせていただきました。

まだまだな私ですが、これからもいただく謙虚な気持ちで、ファミリーのみなさんと学ばせてもらいたいと思っています。今回は体験を書く機会を与えてくださって、本当にありがとうございます。ありがとうございました。

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そして、ゆうちゃんがここを出発する前日の大人会議で、いさどんはゆうちゃんに次のような言葉を送りました。

いさどん:
ゆうちゃんは最初、ケア相談で訪れた弟の付き添いでここに来ました。その時は、「ちょっと落ち着きのない人だな」とは思ったけれど、まさか彼女がここへケアで来ることになるとは思いもしませんでした。弟は短期間の滞在で奇跡のように回復し、それでお姉ちゃんにもケアを薦めてくれたようたようでした。

その後、ゆうちゃんがうつ病ケアを受けにここに来た時には、「この子は難しい子だな」と思いました。というのは、自分で自分の状態を判断していて、「私はそんなに重くない。1週間くらいで良くなる」という判断をしていたからです。それはよくあることで、そういう取り違いをしている人は逆に難しく、時間がかかるケースです。

今は持って生まれた魂のように、謙虚で人に力をもらいながら、そしてもらったことを今度は人のために生かすという人になりました。あなたは陰性だから、人からいただきながら、そのいただいたことを感謝して人に生かしていくというタイプなのです。ところが、ここに来た当初は逆のエネルギーが沢山出ていました。自分のことを自分で判断し、エネルギーもちょっと雑な感じで、ガンガン押し通すような雰囲気でいました。「これは逆転現象が起きているから、このことに気づくのにちょっと時間がかかる」と捉えていました。

しばらくはそういう状態が続いていたのですが、1週間が経って面談をした時に「どう?あなたが予定していた1週間が経ったけれど、これで良くなったと思う?」と聞きました。そこではすでに素直になってきていて、「ダメです!どんどん自分のダメな部分が観えてきました」と言いました。ケアで預かる場合、だいたいいつも最初の1週間をフリーに過ごしてもらい、それからこちらから観える景色を伝え、本人に1週間を振り返ってもらって感想を聞き、その時点で今後の見通しを立てていきます。彼女の場合は、この時点で1週間でいいと思っていた自分の間違いに気づけたので、ようやくここでケアのスタートラインに立てたのです。

その後は、少しずつ自分の実態を認めていく作業に入っていきました。自分を実態とは違うように思いたい、そういう理想を自分にダブらせているとその分だけ余分な時間がかかりますが、彼女はどんどん自分を認めていくという作業に入っていったことを覚えています。

そして、1ヶ月が経った時に僕としては、「今、卒業するのにはちょっと厳しいな」という見解を持っていました。ただし、これはこちらから「ダメだよ」と伝えるのではなく、本人に聞いてみて、本人がどれだけ自分自身を正確に捉えているかということが大事なポイントでした。そこで、「どう?自分で良い状態だと思う?」と聞いてみたら、「まだまだです」と言いました。これが順調だということです。それで、「まだまだです」という言葉を聞けた時に、「卒業はそんなに遠くないな」という見解を持ちました。

それから1週間は、ゆうちゃんがここに滞在していることが気にならなくなっていました。それは何かといったら、ここもひとつの社会ですから、社会の中にいるその人が違和感を発しないという状態です。つまり、調和の生活が出来るようになったということです。調和の原理というのは、まずは謙虚であること。そして、そこで自分が学んでいること。学ぶということは成長しているということです。そういう人は社会では違和感を発しないのです。自分が特別に良くみてもらいたいとか、自分を主張したいといったことがなくなっている状態です。謙虚で学んでいる状態というのは、社会全体を良くすることが出来ているということでもあります。彼女の存在に違和感を感じないと思ったので、急遽面談をすることになりました。それで、「自分のことをどう思う?」と聞くと、本人は「毎日楽しいです」と言いました。そこで、「そうだね、もう卒業の時が来ているね。あとはお母さんと段取りをして、帰る日にちを決めよう」ということになったのです。

ここにケアで来るひとりひとりはその人流に歩んで、その人流に卒業を迎えていきます。歩みも期間もすべて別々ですが、今回も良い物語を見せてもらいました。こういう形で送り出せるということは本当に感謝です。良い勉強になりました。本人にとっても希望のある充実した期間だっだと思うのですが、それが昨日からだんだん不安が出てきて、今日のお昼には僕のところに来て、「私、このままここを離れて大丈夫なのかな?」と不安そうに言いました。「それは当たり前だよ。最後の面談でも伝えたけれど、今の点数は70点だ。だいたい70点取れば合格点。でも、満点にはあと30点足りないよ。この30点をなぜ残して卒業なのかというと、自分の道は自分で歩み、築き上げるものだからです。仮にここで90点や100点をもらったとしても、その点数は仕上がれば仕上がるほどここで与えてもらったものになる。それは木の花依存症やいさどん依存症にもなりかねない。だから、不十分であっても合格ラインがもらえたのだから、そこから社会に出て、自分で築いていく。そうすると、それが自分の人生になるんだよ。あなたらしい人生を歩んでいくことが大切で、自覚のもとに自分の人生を積み重ねていく。だからこそここでの経験をもとにして次もやっていける自信も身につくのだし、それが自分の気づきだからこそ人の役にも立つ人になれる。それがここのケアの原則です。そういうことが本人にとっても大事だからね」と伝えました。

これからの歩みも順風満帆に行かないこともあるでしょう。今は、自分が今までどのように歩んできたのか、なぜ今まで迷いの道にいたのかということはマスターしています。そうしたら、これからは色々な問題事に出会ったとしても、それをチャンスとして活かしていくことが出来るようになっています。最近ゆうちゃんが「ありがたいです」と言うように、問題事によって自分の中にある種を表現させてもらい、自分の行動を振り返って自らを見直すチャンスなのだと気づいたら、問題事は人生を生きていくための糧になるわけです。

そして、私たちは世の中で行き詰まった人たちのために、ここでこのような暮らしをしています。そういう人たちのおかげで私たちも育てられているということでもあるのです。やはりこういう精神性に基づいた仲間を増やしていきたいと思っています。私たちの生き方がそういったきっかけとなることを望んでいるのです。人生はいつどこでどうなるのかはわかりません。これからゆうちゃんは僕たちとちょっと距離を離れて生きていくことになりますが、私たちと同じ志を持って生きていってもらいたいと思います。離れていても、同じ志の仲間として生きていけるということです。

ゆうちゃん、卒業おめでとう!そしてありがとう!

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そして、ゆうちゃんが卒業してから数日後、ゆうちゃんのお母さんからファミリーに電話がかかってきました。

「本当にどうもありがとうございます!ゆうがこんなに変わって、変わって。人はこんなに変われるものなんですね!みなさんのおかげです。本当にどうもありがとうございました。いさどんさんにもよろしくお伝えください。」

けいくんが元気になり、ゆうちゃんも元気になり、お母さんもこれからは安心してご自身の人生を歩まれていくことでしょう。自分の健康はまわりの人も幸せにしていきます。「まだまだです!」は順調な証。けいくん、ゆうちゃん、これからも共に謙虚に学びながら歩んでいきましょうね。

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