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充実した人生を生きるために

2011 年 11 月 7 日 コメント 4 件

木の花楽団のメインボーカルとして、深いメッセージの込められた数々の歌を生み出し、歌い続けてきたみかちゃん。先月初め、そのみかちゃんが子宮癌であることがわかりました。ファミリー全員が集まる大人ミーティングでその報告があった時、いさどんの口から出た言葉は、「更に充実した人生を生きるための扉が開いた」というものでした。今みかちゃんは、それまでと変わることなく、穏やかに日々を過ごしています。
今回は、改めて大人ミーティングの場で、この出来事から思うことをみかちゃんといさどんに語ってもらいました。

みかこ:

夏の間に、不整出血が続く、ということがありました。
それをいさどんに話したら、それが何であるのかをはっきりさせるために病院へ行った方がいいね、と言われました。自分一人だとものぐさな私だけど、そうだな、と思い、病院に行きました。
3度通って、検査の結果は、癌でした。
やっぱり、という思いもどこかにありました。12年ほど前に流産をして、その時に手術した病院でも、私の細胞が限りなく癌細胞に近いということを言われていました。さらに、その後に龍音(11歳)を妊娠した時にも同じことを言われていたのですが、それでも大丈夫だろうと放っておいたんです。そして、癌かもしれないという思いをどこかうっすらと持ちながらも、ここまで何となくやってきました。
今回、癌という結果をもらい、これは私の心がつくったものだ、と、思いました。
全ては心の結果ということを、私たちは毎日学んでいます。大きなショックを受けることはなかったけれど、空を流れる雲のように、表面上はいろいろな思いがよぎりました。食養生担当なのにガンになっちゃったなあとか、欲が深く物をたくさん集める人はガンになるとプレゼンの時に話していたので、自分は物を集めすぎかなあとか(笑)。そんなふうにいろいろと思ったのですが、それでもそのもっと奥に、何か新しい挑戦をもらったような感覚がありました。そして、パニックにならないのは、みんなと共にいるからだとも思っています。
昔なら、癌は死に至る病で、本人には告げずに家族が聞いて、それこそガーンというような(笑)病気でしたが、今は直接本人に伝えられることが多いようです。そしてしっかり事実と直面し、そこを超えて生きている人もいる。自分がそこにどう立ち向かっていくのかを観てみたい、と思っています。
癌になったことをきっかけに、普段あまり話すことのなかった人が、ちょっと話しかけてみようかな、と声をかけてくれるようにもなりました。そんなふうに癌が取り持つ縁を、ありがたいな、と思っています。

いさどん:
それが本当の癌縁(岩塩)だね。:

みかこ:
固そうだね(笑)。
私の血縁の家族の話をします。私の実家は岩手で、東北大震災の時には大津波にあいました。防波堤があったので難を逃れましたが、その後、母が脳血栓で倒れました。手術をしたけれど、それ以来、、植物状態に陥って、今もそのままです。
9歳上の兄は、北海道で結婚して子どもが生まれました。子供とそりで雪の上を滑っていた時に転倒して、ただそれだけなのに大怪我をして、松葉杖状態になっています。
4歳上の姉は、生まれつき体が弱く、子宮も未発達で、成人女性としては未熟な体を持ったまま大人になった人です。体も小さく、いろんな器官が弱くて、高校卒業後に精神病院に入ったこともあります。母親と一体化して生きていたので、母親が植物状態になったことでまた精神状態が悪化し、自ら精神病院に入れてほしいと言って、今は病院に入っています。それも、向こうから連絡をくれるのではなくて、私の方から電話をしてそういう状態だということがわかりました。
父は、母と姉の両方の病院に通っています。特に母の方には毎日通っているので、医療費だけでなく交通費もかかり、お金がどんどん減っていくそうです。悪循環の中にあるけれど、それを何となく、流れなんだなと冷静に見ている自分がいます。父と母は仲が良かった記憶がありますが、今は父が母の悪口を電話で話すようになりました。そんな感じで、家族が壊れていっています。その一家の中の私も癌ということで、ぼろぼろだな、と思いました。
だけど、そんな中で、壊れていく心地よさを感じている自分がいます。時代の流れにのって、壊れるものは壊れていくんだな、という感覚がある。捉えようによっては悲壮にも思えるかもしれないけれど、私の中にはそんな感覚があります。神様は光も闇も全部見せてくれる。うまく言えないけれど、自分の中に、どこかで、癌を恐れる心と、なった自分を見てみたい心があったように思います。そして今、それを観ている。そんな感覚があります。

いさどん:
まず、みかちゃんに限らない話をします。
我々は生きています。生きているということは、生き続けたいという思いが働いている、ということです。そのためには健康でありたい。だから病気を怖れます。生きるということは、常に死と隣り合わせなのです。そして、死にたくないから健康でありたい、と願うものです。
「生老病死」という言葉があります。生きているということには、「生きる」「老いる」「病気になる」「死ぬ」、この4つのことが付いて回ると、仏教では説いています。それは生命の宿命であり、生きることで心に湧いてくる最初の捉われの原因のようなものです。病気は、問題事の代表事例。それ以外にも、その人の中にある感情的なものが現象化されて、日常の中でいろいろな出来事に出会います。怒るとか、悩むとか、愚痴るということが、結果として自分に現象をもたらしてくるわけです。
こういったものが、長い人生の中で、病気の原因として蓄積されていきます。ですから、突然病気になるわけではないのです。人との対立も、突然そこに起きるのではありません。全ては物語として繋がっていて、それが現象として起きてくるのです。それを「因果の法則」といいます。原因があって結果がある、ということです。
ある日、病気に出会った。その病気を自分の目の前から消したい、ということで、今の医療の対処両方を受けることになるのです。多くの人は、目の前に起きている問題事を解決すること、問題事が問題事でなくなることを願い、日々を生きています。しかし、この世界はそんなに単純なものではありません。問題事はただ問題事としてそこにあるのではなく、因果の法則に基づいて現れてきています。問題事を結果とすると、そこには必ず、そのもととなった原因があるのです。
例えば、問題事の花が咲いているとします。そこには種があったはずです。その種が何かの形で人生という畑に蒔かれ、芽生えた。そしてそれを確実に育ててきた日々があったはずです。自分に降りかかっている問題事の花ならば、それは自分が育てたのでしょう。しかし、種があった時点でも、育てている時点でも、それに気付けなかった。その結果花が咲いて、実を結んで、収穫の時にきたのが、現象としての問題事です。収穫になって初めてその存在に気付くのですが、それが芽生えた時も、日々の中で育てていた時も、花が咲いた時も、実をつけた時も、何度もそれが育っていることに気付くチャンスはあったはずなのです。
今回、みかちゃんは癌を収穫をしました。しかし、まだどういうものかはよくわかっていません。最終の検査を先日やりましたので、次に結果を聞きに行った時にどの程度のものかがわかるという段階です。検査の結果には大いに興味のあるところですが、ガンであることは事実です。検査の結果は、人によっては軽いものだったり、末期であったります。それは、近い未来が答えを出してくれるでしょう。繰り返しますが、今みかちゃんは癌に出会っているということです。

癌であったことを通して、私たちは何を学べばよいのでしょうか。
癌は、突然出てきたわけではありません。それは自らが育ててきたのです。ということは、そこには発生の物語があります。結果をもらったならば、振り返って、その物語をさかのぼることができます。自分の中に置き換えて観て、周りの環境に置き換えて観て、癌が育っていくのを再確認する必要があります。なぜならば、今もらっている結果がまた次への原因となって、未来に新たな結果を生むからです。未来の結果をどういうものにするかは、今起きているこの現象を未来への種としてどう捉えていくかで変わるということです。
普通の人は、癌のような問題事に出会ったら、即座に自分から切り離したいと思うでしょう。そして形だけの対策を取ろうとします。医療も対処療法的に、癌という症状の部位を取り除いたりするだけです。
今回みかちゃんが身体の不調を訴えた時に、僕は「それが何であるかわからないまま日々を送っていては、気持ちが悪い。日本には最新の医療テクノロジーがあるのだから、それが何であるか調べてくるといいよ」と伝えました。人はわからないものに怯えるものです。実態をわかって、理解し、そこから冷静に事を進めることが必要ですから、現代医療を否定することはありません。それも人類の進化なのですから大いに活かせばいい、ということで、みかちゃんに受診を勧めました。
最初に検査結果を持って来た時に、僕はみかちゃんに、「今までの心と、生き方の表れだよね」と伝えました。そしてそのことで、僕には、とても明るい未来が観えてきたのです。

みかちゃんと初めて出会ったのは13年前。その時にみかちゃんは、今ここで歌われている歌を持って、来てくれました。
出会った日は、ちょうどクリスマス・イブでした。和子ちゃんが散歩中のみかちゃんに偶然出会い、その夜のクリスマスパーティーに招待したのです。そこでみかちゃんは、自分の持ち歌を歌ってくれました。その時に僕はみんなの前で、「神様からのプレゼントが来た」と言いました。それは、僕が長年持っていた心、そして木の花の生き方が、その歌に表現されていたからです。
それからしばらく、付き合いがありました。でもみかちゃんの生き方をみると、その歌の中に秘められているメッセージと、彼女の人格が一致していない。歌に表現されてるメッセージと、生活が一致していないのです。ある時僕は、「あなたは自分の歌っている歌のように生きられるといいね」と言いました。これは当時のみかちゃんには大変きつい言葉だったでしょう。この気性の激しい人にそれを言ったら怒るだろうということは僕もわかっていました。しかし僕は正直な人間ですから、そう伝えたのです。
その後、木の花との付き合いの中でいろいろなことがありました。その一つに、みかちゃんのパートナーは、みかちゃんとの暮らしの中でみかちゃんにいじめられていると訴えて、うちに救済を求めに来ていました(笑)。みかちゃんをたしなめるのは難しいかもしれないけれど、少なくとも、パートナーが涙して訴えていることは伝えてあげられる。どちらの味方というわけでもなく、二人の関係をよくするためにみかちゃんを呼んで話をしましたが、それが縁の切れ目になりました。みかちゃんは、こんなひどいところとは付き合えないと離れていったのです。助けを求めて来たパートナーにも、あなたにも問題があるよと言ったら、自分を振り返る心がないので、結局彼も離れていきました。
まだ付き合いが切れる前に、僕は彼女にこう言ったことがあります。「僕が話をして、あなたが歌を歌う。そしてこの生き方を世の中に広めていこう」と。けれど返事は、イヤだ、アッカンベーというものでした(笑)。口でそう言ったかどうかは別として、態度や表情はそう語っていました。ああこれはダメだ、と思いました。その後も二人の噂は耳にしながらも、付き合いはありませんでした。それでも僕の中には、みかちゃんの存在は大きくありました。

そして6年が過ぎました。
みかちゃんがここに戻ってくる時の話は、みかちゃん自身もいろいろなところで話しているので、多くの人が知っていると思います。彼女は完全に行き詰まって、誰かに救いを求めなければならないという事態に追い込まれていました。その時に、いさどんさえいなければ木の花は素晴らしいところなのに、と思っていた、あのもっともイヤな親父の顔が頭に浮かんできたのです。そして、この難局を乗り切るためにはあの人の力がないと乗り切れない、と決断したのでした。
昼休みに、僕が本宅の居間のテレビの前に寝転んでうたた寝をしているところへ、みかちゃんが入ってきました。その時、みかちゃんは不思議な感覚だったそうです。木の花の玄関を入ったら、自分の歌を歌ってる人がいるのです。それはちなっぴーでした。みかちゃんにとって、自らの歌を人が歌ってるのを聴くのはすごく新鮮だったようです。つまり、みかちゃんは離れていたけれど、みかちゃんの歌の魂は、木の花で生きていたのです。
みかちゃんは、玄関から居間に入って、いくつも並べてある座卓の向こう側で寝ている僕のところまで、その座卓をぐるりとまわって来ました。みかちゃんは、その時間が随分長い旅のような気がした、と言うんですね。僕は、やっと来たな、と思いました。彼女は僕の前に来て、「いさどん、助けて欲しい」と言いました。僕はなんと答えようか考えました。僕が世の中のために共に生きようと言ったのを蹴って、パートナーの涙ながらの訴えを聞いて仲裁に入ったことも蹴って、後ろ足で砂をかけて振り返って石を投げつけていったみかちゃんが帰って来たのです。

みかこ:
それだけでも充分癌になるよね(笑)。

いさどん:
そうだね、ここらあたりで既に癌の種ができてたんだね。ガンガン投げてたから(笑)。
それだけではなく、みかちゃんはいろいろなところで重宝されてイベントに引っ張り出されていましたが、そこで何となく“反木の花運動”をやっていたのです。無言で砂をかけられているようでした。
それでも、僕は何となく、それで縁が切れるものではないと感じていました。ミーティングでも、みかちゃんのことは時々話題に上がっていました。正しい道を見つけられない人の行く末を思うということもありましたし、だからこそ、大事な道がある人とは縁があるよ、という話をみんなでしたこともありました。それがやっと、帰って来たのです。僕はそこで、「やっと来たか、待っていた」、と言いました。そこで積年の恨みはどこかへ消えてしまって、ハグをしました。そして助けて欲しいという事で、その時にあったいくつかの難題を解決するために早速乗り出したのです。
それからいろいろあって、みかちゃんは木の花のメンバーになりました。今は、うちの一番の心臓です。心臓はいくつかありますが、ここでの歌は本当に大切です。それを担ってくれている。僕はこの人生を、この心と共に生きていますが、それを見事に表現してくれるのがみかちゃんの歌です。みかちゃんが作詞する時も作曲する時も、僕に相談することはありません。けれどその歌は、見事にここの精神性を表している。そして僕が湧き出てくる想いを表現する時に、それに合わせて彼女が歌を歌ってくれる。それは、大いなる意志のもとに、道が共通する者の出会いなのです。
昔、僕が話し、みかちゃんが歌って、この生き方を世の中に広めていこうと伝えました。そこには運命の出会いという縁があるのでしょう。僕は皆さん一人一人と、運命の出会いをしています。そしてその一人一人とパートナーシップを組んで、天から頂いた大事な道を共に歩んでいる。その中でも、みかちゃんとは特に印象の深いパートナーシップだと思っています。

僕は30年前から、カルマ読みといって、人のカルマを見ることをしてきました。人の名前から人格を読みとるという道を頂いたのです。これは現世に師匠がいるわけではなく、天から降ってきたものです。そして今まで沢山の人たちの行き詰まりの相談に乗ってきました。これには実績があったからこそ、ここまで続けて来られたのだと思っています。独りよがりの話では人は相談に来ません。それが、この生き方と共に、この歩みを支えてきました。それに歌が加わって更に深いものになり、木の花という歩みが確立されてきました。
そして今年になって、また一つ、神様からのプレゼントを頂きました。それが地球暦です。
僕が人のカルマを読むのは、その人の魂の状態を観るということです。それはその人が内から発する心の種であり、それが原因となって日常の生活の現象をもらい、それが結果となります。その結果が原因となって、また新たな結果と出会う。そこには常にカルマが関わりながら人生が循環していくわけです。そしてカルマが物語を紡いで、人生がつながっていくのです。
人は生きることにより、自ら原因の種を蒔いていきます。人生の畑に蒔いていくのです。畑とは、この世界のことであり、最終的には全宇宙を意味します。我々は種を蒔きながら、その畑の側から表す目的を、充分に理解しないでいたのです。それをひも解いてくれたのが、地球暦です。宇宙、太陽、地球と月の関係、そして太陽系の兄弟である他の惑星との関係、その生命の営みを表現してくれている。そこに表されている仕組みが、この世界と我々を創っている。我々の生命活動を表現しているのです。この時空、風土、そういったものを与えてくれる宇宙の事情、そして地球の事情、生命としての事情、それをグラウンドとして与えられ、その魂が自らを表現する結果、魂の種が芽生え、育ち、花が咲いて、実を結んで答えを頂く。それをこの世界が私たち一人一人と一緒にやっている、そのステージを見ることを、地球暦が教えてくれています。一人一人のカルマを読み、人がそのカルマを学ぶことにより、生かし健全になっていくという道に対して、この宇宙は、私たちに何を求めてこの世界のステージを与えてくれているのか。そこを読みとることに出会ったのです。
不思議なことに、僕がその話をすると、みかちゃんは歌だけでなく絵でも表現してくれるようになりました。同時に、地球暦の惑星配置を読みとることが、彼女の中に湧き出てくるのを僕は感じたのです。これまで、歌と話で共に世の中のために生きようと歩んできたのが、これからさらにもう一つ、新しいパートナーシップが生まれていくことを感じています。それは大変大きな役割であり、大きなエネルギーがいります。それは我々が日常を生きている時に使われるようなエネルギーではありません。日常のエネルギーというのは、物理的生命エネルギーに多くを使っています。そういったものではなく、自らを静かに落ち着けて、この宇宙ステージに置いてやると、この世界の奥から湧き出てくるものなのです。そこから湧き出てくるエネルギーは無限なのです。その力を使って、みかちゃんは絵を描いたり、地球暦を読み取っています。ただ、今はまだ充分ではありません。それには、もう一対のカルマ読みが重なって、さらに精度が高くなるのです。地球暦との出会いは、みかちゃんとの距離を特に近くに感じさせてくれています。本人もきっと、以前より身近に感じていることでしょう。
そんな事を感じていた時に、彼女の身体の不調を聞きました。その時僕は、以前みかちゃんが行き詰まってここに戻ってきた時と同じように、そうか、やっと来たか、随分待っていたよ、という感じがしたのでした。そしてその実態を理解するために病院に行ってくるように伝えました。その答えは、癌でした。しかし、それはさらなる明るい未来が始まる予感につながっていったのです。

人間は、身体生命が生きていると捉えている人が多いと思います。しかし、本当は、魂が生きるのです。
命の危険を感じた時に、人間は人生が変わるでしょう。何か不摂生をしていた人は命の危さと引き換えに心が変わる。この世界に生きる目的が残っている人は、そうなるものです。このことが、みかちゃんにこれからの大切なものを与えるきっかけになる。そしてこのパートナーシップが更に深まると感じています。
癌になることがいいこととは言えません。これは明らかに、過去のみかちゃんの生き方の結果です。因果の法則が表した、宇宙の道理です。しかしその結果は、そこで終わってしまうわけではないのです。その結果が原因となって、更に未来の結果へと繋がるのです。この結果をもらったことが不愉快で、それを即座に無しにしようと思うなら、その未来には新しい不愉快が起きるでしょう。しかしこの不愉快は、新しい喜びにつなげることが出来るのです。それは次の結果への種であり、全ては物語としてつながっているのだから。今それをどう受け止めるかで、その答えはいくらでも変えられるのです。

二人の運命的な出会いと、大きな役割を想い、そのためにこの病気が与えられたと捉えた時に、明るいものを感じます。単なる明るさではなく、意味深い明るさです。命の長さはどうでもいいのです。長く健康でいられたら幸せなのか、命が短かったら不幸なのか、それははかれません。それは、生きることの目的に基づいた生き様と結果なのです。そう考えた時に、いよいよ来るべきものがきた、と思いました。
しかし、それだけのことで、クライマックスを迎えたなんて思ってはいけません。人生を生きていると、まだまだいろいろなことに出会います。それは命の海を生きていく中で出会う、波のようなものなのです。
人が生きるということには、生老病死という定めが常に付きまとうものです。しかし、そういった仏教的な教えすら、これからの時代には古いのです。何故かというと、不幸は、不幸の種の存在を教えてくれているのであり、その種を発見し、どう読み取るかによって、いくらでも変えていくことができるからです。不幸とは喜びの種なのですから、不幸などというものは、この世界にありはしないのです。宗教は人々にこの世界を特定し、一方通行の教えを説いてきました。確かに一方通行ですが、その先は、最初に戻ってつながり円になって、回っているのです。その仕組みが分かったら、この世界に不幸などありません。この世界がそれを人々に伝える時代が来ている、というだけのことなのです。

もうひとつ、話したい話があります。

みかちゃんは、みかちゃんの人生で、癌という病気に出会いました。そしてそれは彼女の心がつくったものです。人生という畑に種を蒔いて、それが実を結んだのです。
そしてもう一つ。みかちゃんの癌は、実は、僕が作ったということです。
このことについてこれから話します。もう少し時間がかかりますが、お付き合いください。

僕はこの生活をしながら、この生き方こそ、病気を治し、問題ごとを解決して、人々を幸せにすると思ってきました。今のような行き詰まりがいっぱいの時代に新しい方向を示し、人々を真実に目覚めさせる、その道しるべとしてこの道があると思い、この生き方を歩んできたのです。するといつの頃からか、「全ては良きことのためにある」と、そのことがわかるところに立っていたのです。
「癌」という漢字は、品物を山のように抱える病気、と書きます。以前、僕はプレゼンの中で、癌は欲深い人がかかる病気だと言っていました。しかし、プレゼンでは世の中に理想の世界を発信するべく語っていても、例えばミーティングでぐだぐだ言っている人がいたり、日々の生活の中で不調和が見えると、日頃そういった理想を語っている僕は詐欺師になってしまうことになります。だから、ここの人たちは、病気になって治療するのではなく、病気にならない生活をしていくこと。ましてや欲深な癌にはならない生活をしていくこと。それが賢明な生き方だと言っていたのです。
そういう自分が癌になったらどうするか。この雄弁な僕が、どうやってうまいことを言って、それをごまかすか(笑)。しかし、僕は道を頂く人ですから、その時にはその時のように、神様が上手く屁理屈を教えてくれるから大丈夫、と思っていました。
一般社会では、癌や鬱などの問題がたくさんあります。そして肉食に偏った食生活をしています。環境のことを考えると、今の世の中の人々は、その生き方によって、自分から災いを世の中に撒き散らし、そして自らに提供している。それは物語の連続ですから、その途中で気付くチャンスはいくらでもあるのです。しかしなかなか気付けない。それは日々を振り返らないからであり、自らに捉われて、正しく客観的に物事を観るということをしていないからなのです。
では、それを実践している木の花の生き方の中で癌が発生した時は、どう捉えたらよいのか。
僕はある意味、単純な考えをしていました。それは困る、どうやって説明しようか、と。ところが、実際にみかちゃんがそうなった時に、僕の中のどこか奥の方にずっとあり続けたその思いが、消えていったのです。そして、この癌の原因は何だろう、と、思いました。
僕は、癌のない、問題ごとのない世界をここは目指し生きている、と語ってきました。そして、もし癌が起きたらどう解釈するだろうと思っていました。そうしたら、みかちゃんが癌になった。僕はそれを、神様からのプレゼントかもしれない、と思ったのです。
神様が僕を導くために、みかちゃんの癌をプレゼントしてくれた。
(涙で、いさどんの言葉が詰まる。)

13年前のクリスマス・イブの日、みかちゃんと初めて出会いました。そしてみかちゃんは、歌を歌ってくれました。僕はその出会いを、神様のプレゼントだと言いました。
そして今度は、みかちゃんの癌という形で、神様はプレゼントをくれたのです。
それは僕のためであり、みんなのためであったのです。

昔、僕はこういう生き方の歩みの中で、その裏付けが欲しいと思っていました。
そうしたら、歌が来ました。
そしてまたいつの頃からか、この生き方が正しい側でありたい、そうでない側でありたくない、という想いを持っていました。
そうしたら神様が、その心をどう持つかを、みかちゃんを通して、癌と共に教えてくれたのです。
そして僕の心が、次のステージに行くことが出来た。

全ての出来事は、プレゼントです。そしてそれをどう生かすかが、未来のプレゼントにつながるのです。僕は、問題ごとが起きた時に自分がどう思うかを想像していました。困ったな、これをどうやって正当化しようかと考えるのかと思っていたら、そんな屁理屈なんて全く出てこなかった。
このことは、命は身体で生きるのではなく、魂で生きるということに気付くためにあった。そして、共にもっと深いものに気付いていくために、みかちゃんの精度をさらに上げることで僕の精度を上げてくれることでもあった、と気付いたのです。
本当を言うと、命の長い短いはどうでもいいんです。それは永遠に続いていくものだから。死は生への出発ですから、怖れることはないのです。ただ、生きているものたちが、命を無駄にすることがいけないのです。
「生老病死」を四苦と言います。それに、愛別離苦(愛する者と別れる苦しみ)、怨憎会苦(怨み憎んでいる者に会う苦しみ)、求不得苦(求めるものが得られない苦しみ)、五蘊盛苦(あらゆる精神的な苦しみ)の四つを足して、四苦八苦と言います。そのどれもが、原因の種なんです。それがあることによって結果が生まれて、我々に、この世界で生きていることの意味を教えてくれるのです。ですから、全てが尊いのです。愚かなものは何もないと気付いた時に、我々は初めて、生きることの本当の意味を知るのです。

充実した人生を生きるとは、どういうことか。
「人生」は、「人が生きる」と書きます。その命の秘密は、この世界の命の連鎖の秘密、それは宇宙生命物語です。自分というものが生きている、その内に心を向けて、その秘密を解き明かしていく。それが人生の目的です。
生きているといろいろな出来事に出会います。一つ一つを区切ると、それは時には問題ごとです。そして一つ一つは、その問題ごとから喜びとなります。問題ごとで悲しみ過ぎてはいけません。喜びで有頂天になってもいけません。それらは全て、物語の連続なのですから。
その物語を知って、それを表しているものの意図を理解すること、それは、何故自分が生まれてきたのか、何故ここにいるのか、そしてどこへ行くのか、その目的が何であるかを知ることになります。それが、人として生まれてきた最大の目的です。それを探求し、一つ一つ自分の中に解き明かしていく。これが、充実した人生を生きるということなのです。

長く話しましたが、何が伝えたいのかというと。
みかちゃんがみかちゃんとして生きて、癌と出会った。みかちゃんには癌が必要だった。
癌は悪いもののようですが、大きなメッセンジャーでした。

本当に、この世界に生きているということは、ありがたいものなのです。

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豊里講演会を振り返って

2011 年 10 月 24 日 コメント 6 件

昨年11月に出会って以来、数多くの交流を重ねてきたヤマギシ会と木の花ファミリー。去る9月29日、ヤマギシ会で最も多くの人が住む「豊里実顕地」で、「世界のしくみを知り、そこで暮らす心のあり方を見つめよう」と題するいさどんの講演会が行われました。

世界最大の農的コミューンとして50年の歴史を誇るヤマギシ会に、いさどんはこれまで多くの投げかけをしてきました。その集大成ともいえる今回の講演を終えて、一つの節目を迎えた今、いさどんにその思いを語ってもらいました。

出会う前、僕はヤマギシ会をもう少し凝り固まった人々の集団だと思っていた。ところが実際に出会ってみると、ヤマギシ会はそれまでの歩みを超えた、新たな世界を求めていた。自分たちだけが正しいと主張するような要素が全くないとは言えないが、これまでの歴史の中でさまざまな挫折を味わった結果として、新たな歩みを求める時に来ていた。

ヤマギシ会の中には、内部に矛盾を感じている人もいれば、相変わらず自らが正しいという思いにとらわれて外に意識を向けない人もいて、いろいろな思惑が混在している状態。

僕らは、ヤマギシ会を意識してこの生活を始めたわけではない。ただただ、世のため人のための道を歩んできた。そんな時、仏教の経典である法華経に僕らの生き方を見る時がある。ヤマギシ会の成り立ちにも同じ精神があり、それは僕らとの共通点でもある。ただ、ヤマギシ会と木の花との違いは、高い理念が掲げられていても、それを生活の中に定着させることを徹底していないところにある。木の花もまだまだ未熟ではあるが、生活の中にその理想を表していこうと日々実践を積み重ねている。そこのところに、ヤマギシ会の人々は注目すべきである。

しかし、木の花もヤマギシ会も、本来の目的は同じところにある。そしてこれからの時代、社会がこうした生き方を必要としてくるのは明らかである。改めてこの生き方の大切さを実感すると同時に、僕らだけでなく、より多くの人々が社会の見本となり、そのネットワークを広げていくことが必要だと感じている。ヤマギシ会は「全人幸福」というスローガンを掲げているのだから、彼らがそれにふさわしい生き方をすることが、僕らの喜びであり、世の中のためでもある。

ただし、彼らには彼らの歩みがあり、意思がある。それを尊重して、僕らの理想を押し付けるのではなく、彼らの歩みを認めることが大切だと思っている。しかし、ただその歩みを待っているだけでは、僕らの役割は果たせない。彼らが外の世界に疎く、目覚めの時が来ているのにそれを十分に果たせていないのならば、僕らには彼らに刺激を与える役割がある。

今回、豊里実顕地での講演が実現した。結果がどうなるかは、ただ頂く姿勢でいるだけだから、特に考えていない。しかし、結果として、ヤマギシ会の人々の中に大きな心の変革が起き始めている。それは今回の講演会もひとつのきっかけだったが、それよりも僕はこれまでにたびたびヤマギシ会を訪れて、多くの人々と直接対話をしてきた。中でも、不満分子と言われているような人たちと多く話してきた。そこで見えてきたことは、彼らがもともと理想に燃えてヤマギシ会に参画したものの、夢破れた人たちであるということ。その彼らが、木の花と出会ったり、僕と話をすることによって、もう一度目覚めて、参画の時の志を取り戻そうとしている。これはとても大きなことであり、今後のヤマギシ会の変革にとって大きな力となるだろう。また、そうなるべきである。これまで、彼らは一時的とはいえそうした志を忘れて諦めの境地に陥っていたのだから、ずい分いい風が吹き出したと思う。

そして今、僕らはヤマギシ会のあり方を尊重し、期待しながらも、あくまで彼ら自身が動くのを待っている。そういう立場に徹して、見守っていくことが大切だと思っている。

講演では、世界観や宇宙観について話した。ヤマギシ会はもともと高い理想を掲げてはいるが、その理想が日常の中で忘れられている。一般社会の人たちと同じように日常の些事にとらわれて、大きな世界観を持てないでいる。高い理想を目指すには、日々の確かな生活と大きな世界観がつながっていなければいけない。また、人が生きている本来の目的に目覚めるには、多様性を認め、広い視野を持つことが必要である。そういうことを踏まえて、僕らが普段から大切にしている世界観を伝えた。

地球の生態系の中で、人間は大きな役割を果たしている。人類にはその頂点に位置するものとしての役割があり、義務がある。そういったことを意識して生きることが、彼らの掲げる「全人幸福」の実践につながる。

ヤマギシ会の理念で語られていることと、今回の講演で僕が語ったことは同じである。それはヤマギシズムという思想に封印してしまうようなものではなく、世界人類に共通する普遍的なものとして、世の中のために広げていくべきものである。これまでヤマギシ会という組織のためにあった学びを、本来の全人幸福に向けた活動として実践していく必要がある。そういうことに気付いてもらうための講演だった。世界観の表現の仕方や枠の広さに違いはあるものの、ヤマギシ会も同じようなものをベースに持っている人たちだから、僕の話すことを理解できる人はたくさんいた。

特に伝えたかったことは、ヤマギシズムに共通する概念は世の中にたくさんあり、ヤマギシ会の中だけにあるのではない、ということ。この世界には、いろいろな歩み方がある。ヤマギシ会の人たちは、自分たちで考え、自分たちで答えを出していくと言う。しかし、それは創設者である山岸巳代蔵さんがヤマギシ会の発足から3年間しか生きていなかったことの結果なのである。もしも彼がもっと長く生きていたら、聖者としての巳代蔵さんがヤマギシ会の道しるべになったはず。しかし、結果として彼は3年しか生きていなかったために、残された人たちはそれぞれの裁量の中でヤマギシズムを表現してきた。そして、それは残念ながら、巳代蔵さんの深い精神性から少しばかり外れて、わかりやすい答えを出すことを優先してしまった。言わば、戦後の日本社会の縮図のような歩みが展開されたのである。

ヤマギシ会の人たちは、自分たちで答えを出したい、という思いが強い。しかし、それは「無所有」という概念を唱えながら、所有の心が強いということである。この世界を多様性という視点で捉えると、人にはそれぞれ役割があることがわかる。大切なことを語って人々を導いていく役割を持った者が、この世界には必ずいる。巳代蔵さんは、たまたまヤマギシ会の運動に3年しか関われなかった。それには何か大きな意味があるのだろうが、巳代蔵さんがその役割を十分に果たさなかった結果、ヤマギシ会の人たちは、物事をいただく精神や、「湧き出てくる人」に出会わなかった。それでは、本当の「無所有」に至ることはできない。そう言われるとヤマギシ会の人たちは違和感があるかもしれないが、湧き出ない人たちが10人集まろうと、100人集まろうと、それは烏合の衆なのである。そういう時には、湧き出てくる人からヒントをもらって方向を見つけながら道を切り開いていけばいい。ただし、そのときに僕らがよく言う「いただく姿勢」にならないと、大切なものを受け取ることはできない。

もし彼らが「全人幸福」をどんなことよりも大切にしていたら、どこから出てきたものであろうと、優れた考えは優れた考えとして、そのまま受け取ることができるはずである。しかし、実際には「自分たちで答えを出したい」という思いが先に立って、そうはならない。それは、彼らが自らの生き方を所有していることの表れである。

しかし、ヤマギシ会の長い歴史の中で、そのように自分たちで考えて歩んできた結果、さまざまな矛盾が発生してきた。その中で、少しずつそのことに気付く人たちが現れて、雪解けが進んでいくのだろう。共に歩みながら、彼らの歩みを見守っていきたいと思う。

ヤマギシ会で面白いのは、実顕地ごとに空気が違うこと。それぞれ独立しているとはいっても、何となく歩調が合っていない。それが、今のヤマギシ会を象徴している。それは、それぞれの実顕地を尊重しているとも言えるし、理念を共有できていないとも言える。誰も全体のリーダーシップを取らないから、まとめるのに時間がかかる。しかし、だからこそ民主的な場になる可能性もある。ヤマギシ会の人たちの考え方次第で、どちらにも行ける。

出会った者の役割として、僕はヤマギシ会に時には挑発的な投げかけをしてきた。それは、本来のあり方に目覚めてもらうためにしただけのこと。巳代蔵さんが生きていたらきっとしたであろうことを、代わりにしているだけである。

しかし、それを無理強いはしない。我々には今、外からのアプローチがたくさんある。そして、これからそのアプローチに応えていくという大きな役割があるのだから、それに専念していくだけ。ヤマギシ会の中で、今は時期ではないという結論が出されたとしても、我々は木の花の歩みとしてやっていくのである。常に世の為人の為。そこに冷めた思いもなく、熱い思いもない。

ともこ:でもいさどんは、ヤマギシのためにものすごく労力をかけているよね。

労力をかけることはいい。それが僕の人生だから。労力をかけたからといって、それに見合う結果を求めては、恋愛と同じになってしまう。どんなに労力をかけようと、それは自分の人生だから、相手には関係ない。相手がそれを受けてどうするかは相手の価値観の問題なのである。

ともこ:相手にこうなってほしいという思惑を持たなければ、疲れることもない?

思惑がなければ、疲れないとも言えるし、乱れない。道が違ったとしても、認められる。

ともこ:だけど、いさどんはいつも真剣でしょう。大切なところからずれている人に対して、すごく真剣に伝えている。

ずれていることを伝えるのは、こちらの役割だから。例えば、ある人が苦痛のところにいる。その人は苦痛の延長に喜びを求めようとしている。そうすると、そこにまた苦痛が生まれる。そういう喜びの求め方ではなく、本当の意味での喜びを見出すこと、それはこちらの喜びでもある。苦痛のもとになるような喜びを、喜びとしていてはいけない。

相手がわかっていなくても、こちらがわかっていたら、それは伝えるべき。それがわかっている者の役割。しかし、それが自分の思惑であってはいけない。こちらの目的ではなく、あくまでも相手の喜びのためでなくてはならない。だから、相手に聞く気のあるうちはこちらも一生懸命やるが、一たび相手にやる気がなくなったら、即座にこちらもそのエネルギーを使うのをやめる。これは冷たいからではなく、相手を尊重し、大切にしているからである。

ともこ:いさどんは相手に与えながらも、そこに思惑を持たない。神様もそんなふうに私たちを見守っているのかな?

神というのは、法則だからね。そこに情がからむことはない。

人間が執着するのは情があるから。自分の家族だから、妻だから、子だから、という情がある。情とは「なさけ」。しかし神には、そういうものはない。法則そのものなのである。

情のあることを、「愛情」といって深いもののように思うけれど、「愛」に「情」というなさけが付くと、それが執着となる。神の愛というのは、約束通りに現象をあらわして、約束通りの事を表現すること。だからこそ我々は、その中で安心していられる。特別なえこひいきがあるわけでもないから、安心して、ルール通りに表現していくことができる。この世界の仕組みそのものが、神の愛。本当の爽やかさと奥の深さがないと、それは表すことができない。しかし人間流に「できない」と言ってしまうと、本質から外れることになる。それはできるできないではなく、流れそのものなのだから。

ともこ:それでも、人間の気付きとか喜びを、神様も喜びとしているのですか?

それは、エネルギーだから。つまり、喜びのエネルギー。

エネルギーには、例えば悔やみのエネルギーや怒りのエネルギーもある。悔やみのエネルギーというのは、萎縮していく。怒りのエネルギーは、破壊していく。怒った時に、その怒りというのは、人間の中だけに発生しているもの。ところが、人間はその怒りを、別のものに表現する。茶碗を割ったり、相手に暴力という形で表現する。しかし、それは単に、自分の中にある怒りのメカニズムと、怒りのエネルギーが現れただけ。それがいろんなところに連鎖していく。すると、その怒りのエネルギーというのは、そういうふうに物を壊したり、病気をつくったり、対立を生んだりする。

喜びのエネルギーというのは、人をリラックスさせ、微笑ませる。同じ喜びでも、宝くじに当たったとか、会社が成功したなどというものは、いずれ不調和を生む原因にもなる。喜びにも、他者と共有できる永遠の喜びと、瞬間的に発生する極めてエゴ的な喜びとがある。神様が喜ばれる喜びのエネルギーというのは、自分の根本存在が善意であり愛であり調和であるとすると、そこが循環していくような喜び。単なる喜びとまとめて言ってしまうと、人間的な喜びを神様にだぶらせてしまうことになるが、喜びのエネルギーは大きさや深さに違いがあるという事なのである。

神は、人間がこの世界の神秘、真理に目覚めていく、深い悟りに結びつくような喜びを喜ばれる。人間が本当の存在の意味を理解することで初めて、人間と神が手を結ぶことができる。自分から離れていったものが、そのことを知って、再び手を結ぶ。そこで喜び合える。

喜びには種類があると言ったが、低い喜びが喜びではないのかというと、そうではない。低い喜びでも、初歩段階ではあるが、それも喜びなのである。それはプロセスとして繋がっており、エゴ的な喜びも、その過程の中にあることになる。多くの人間はその低いレベルに目的を置いてしまって、本当の目的を見失っているのである。しかしそれとて、神の魂の旅というところから考えると、プロセスではある。結局すべては神の手の中にあるということになる。

無知であることは、罪である。本来、人間はこの宇宙の法則に基づいて、神秘のもとに生きている。そのことに気付こうと思えば、いつでも目覚めることができる。その証として、人間にはこの複雑な世界を生きることが与えられ、様々な現象を通して目覚めていくように道が与えられている。それが、人間の生きている目的である。

ところが、そういった配慮のもとにありながら、いつまでも本来の目的を見出さない者は、霊的には低くなっていく。特に、宗教のように真理を語り、世の中のためにある立場を取りながら、その逆の状態になっている者たち。それは、言行不一致の歩みであり、罪の歩みなのである。

ただ、それは一つの見本でもある。真理のそばには、魔の扉がたくさん用意されている。だから、いつでもまっすぐな道を歩んでいくことが大切である。そうでないと、本当のことに気付けない。それは無知であり、罪である。

ともこ:よくわからないです。以前、この世界に存在するもの全てが尊いという話があったけれど、霊的に低くなるというのは罪なのですか。

そうやって頭で考えを巡らせて、質問する。そこに回答を出せば出すほど、真理から遠ざかっていく。僕も今、こういう風にあるべきだ、それをやらないと真理に目覚めない、それは罪である、という話をしたが、そういう風に伝えれば伝えるほど、道から外れていく。

法華経の教典があり、その解説がある。そこには解答が記されている。しかし、それ自体はあくまでもその法華経次元の解説であって、真理は一人一人が歩んで気付いていくもの。正しいとか正しくないというのは、ないのである。

あなたは質問をして、こうしたらOKという答えを求める。それを聞かれて、僕は答えを出すけれど、答えを出せば出すほど、それは答えから遠ざかっていく。誰かが一つの解答を出して、これが正解、ということではない。一人一人が自分で歩んで、確認していくことが大切なのであり、そして全ては一つの答えにつながっていくのである。

信念を持って歩めば、結果としてその信念のように答えが出る。この世界の流れに沿いながら、その法が開いていくと、そのようになる。

僕はただ、神様がこの一連の出会いを通して、どのような目的を示されて、どのような結論をもたらされたいのか、それを見せていただくのを待っている。僕の思いは、それだけなのである。

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個人と社会の病理をホリスティックに捉える

2011 年 9 月 29 日 コメント 3 件

ただいま、ファミリーでは「心を耕す家族の行く手」に続く「木の花ファミリー本」第2弾の出版計画が進行中です。
出版社は「心を耕す」に続いてロゴス社です。同社は、「いたるちゃん」こと村岡到さん主宰の出版社で、社会主義的な視点からの雑誌や書籍を多く出版されています。
先日、いたるちゃんから「ファミリーの心のケアの現場から見える精神医療の実態について原稿にまとめてほしい」との依頼があり、いさおが執筆を担当することになりました。
現在、ファミリーにケア滞在しているMくんの経歴が精神医療の現状を端的に表していると考え、まずMくんの治療歴についてインタビューしました。そして、それを踏まえていさどんに語ってもらいました。
以下は、そのふたつのインタビューをまとめたものです。これに加筆編集したものをいたるちゃんにお渡しする予定ですが、ブログ読者の皆さまには、ぜひ原文を読んでいただきたく、いたるちゃんの了承のもとで、ここに公表したいと思います。

□ Mさんの通院歴

Mさんは40歳。8月の上旬からファミリーに滞在して、心のケアに取り組んでいる。
滞在前、一年程前から通院していたメンタルクリニックでMさんが一日に処方されている薬剤は、計9種類、22錠にもなる。分類してみると、以下のようになる。
まず、薬の袋には「不安や緊張、興奮などの精神症状を改善する」と説明されている「非定型抗精神病薬」。統合失調症などの治療に使われる薬で、これが「インヴェガ」「エビリファイ」「セロクエル」の3種類。不安を抑える、いわゆる精神安定剤が「コンスタン」「デパス」「ベゲタミン」の3種類。睡眠導入剤が「ネルロレン」「フルニトラゼパム錠」「ベゲタミン-A配合錠」の3種類。また、「ふるえや筋肉のこわばりをほぐす」パーキンソン病の治療薬「タスモリン」、「けいれんを予防する」てんかんの治療薬「リボトリール」も処方されている。
これほどの種類、量の薬が必要な彼は、いったいどれほど重篤な精神疾患なのか。本人に現在の病名を聞いてみると、驚くべきことに「知らない」という。
Mさんは、19歳のときに初めて精神科を受診した。元々は社交的な性格で、高校時代も楽しんで過ごしたが、家庭事情の悪化や、住み込んだ予備校の寮に馴染めなかったりしたことから、少しずつ精神状態が悪くなっていった。電車に乗ることがしんどくなり、大学入試も震えながら行った。なんとか受かった大学にも行けそうになく、「家庭の医学」を読んでようやく病気であることを確信、精神科の門を叩いた。そこで「神経症」と診断さされて処方された精神安定剤が「バッチリ効いて」、大学生活を普通に送ることができた。ただ、2年生で留年が決まったことをきっかけで大学を中退。その後は親に仕送りを受けながら、適当にバイトをしながら遊んでいた。
本格的に歯車が狂いだしたのは、27、8歳のとき。処方されていた精神安定剤が効かなくなった。なんとか元気だった頃の自分に戻ろうと、あちこちの精神科を転々とした。いわゆるドクター・ショッピングだ。
その後の受診遍歴は多彩だ。Tクリニックでは、医師が「君は病気ではないから、薬は無意味。行動でしか治らない」と断言した。その医師は、先輩が営んでいる有名な全開放病棟のA診療所をMさんに紹介。「入院」という言葉を使わず、外出も完全に自由という開放的な雰囲気の中で「承認欲求が満たされた気がして」、3ヶ月間の「入院」後は一人暮らしを始めたりもした。ただ、A診療所は自由に外出を認める一方で、大量の薬を処方された。現在通院しているクリニックの処方は、その処方が引き継がれているのかもしれない、とMさんは言う。結局、一人暮らしは一年で終わり、実家に戻ってA診療所への通院を続けるが、次第にひきこもりがちになる。
「医者の不養生」なのか、A診療所の医師は娘が摂食障害を患っており、彼女が通っているということでN診療所を勧められた。宿泊施設に滞在して、デイケアを利用しながら治療するフリースクール的な施設だ。サポート担当者が付き、被害妄想的な考えに悩まされたときは、辛抱強く事実を伝え続けてくれた。薬に頼り過ぎない方針を取っており、Mさんも医師に叱咤されながら減薬に成功。4ヶ月後に滞在を終了したときには、二度と病気に戻らないと確信した。
しかし、実家に戻って介護の仕事についたものの、すぐに辞めることになり、結局は元の状態に戻ってしまった。かつて「君は病気ではない」と言ったTクリニックを受診すると、「辛いかもしれないが、仕事を探してそれをするのが君の治療」と言われる。
その後は、厚生省がひきこもり解消に推進していた自立塾に行ったりするが長続きせず、近所のメンタルクリニックを受診するようになった。その結果が、冒頭に述べた通りである。
始まりは決して重篤な病気ではなかったのに、実に20年を超える期間、Mさんは精神科と縁が切れることがなかった。その21年に渡る「多彩な」通院遍歴から、何かが浮かび上がっては来ないだろうか。

□ 「主治医」役をつとめるいさどんの見解

Mくんは、もともとデリケートな気質の人。しかし、今の社会はそういった人が適応できる幅を狭めている。ここからここまでが適応できる人で、ここから先が落ちこぼれ、と枠を作っている。
そういう価値観の中で、社会自体が狭い世界を作っているわけだから、Mくんに限らず、社会に適応できているように見える人も、狭いところでストレスをためて生きている。彼のように引きこもりや精神疾患を発症しなくても、それにつながるような、もしくは類似するような症状を表している人は多くいる。言わば社会全体が彼の病的な症状と同じようなものを表していて、アルコールやタバコといった、健康な社会では必要とされないようなものまで必要としているところがある。それどころか、経済そのものがそういうもので担われているという現状がある。特に先進国にはそのような傾向がある。
人間は個性的で多様なものなのに、現代社会は多様性の幅を狭めて、その枠の中で落ちこぼれを作っている。まず、それがひとつの要素。
もうひとつは、そういった社会の中で、Mくんをとりまく人間関係にも社会の価値観が影を落としている。子育てしかし、教育しかし、本来はその人が持っている個性を伸ばすことで、その人らしく社会に貢献できるように育てるという目的がある。しかし、家庭や学校などで、本人の資質を無視した子育てや教育が行われている。Mくんの親も、彼の資質をきちんと見て、というよりは、親や社会の価値観のままに彼を育ててきた節がある。
たとえば、Mくんは自己を表現するのが苦手で、自らの目的を見出しにくいタイプなのだけど、それが外からの価値観を押し付けられると、いったんは応えようとはする。しかし、それが自分の資質から外れていれば、当然、不適応が起こる。その結果、自信を喪失していく。
人間には個々に持っているエネルギー量というものがあって、それは生命力と表現することもできるが、Mくんのような人はそれが弱い。エネルギーをうまく使いこなす能力が乏しい、つまり不器用ということ。その不器用なところから、社会に出ることを拒否するような感情が生まれてくる。そしてそのときに、理由がないとだんだん拒否しづらくなるから、それを口実として病的なことを発症させる、ということも起こる。
家庭では、そういうことを客観的に分析できない。安易な親はそれを叱責する場合もあれば、Mくんの親のように、本人の言うことを鵜呑みにしてしまって、要求することをすべて叶えてしまったりする場合もある。そして、それによって混乱した状態を続けていく。
そういった人々を待ち構えているのが産業としての医療で、その現場では生産性を上げることが目的になっている。そこには医療の本来の役割である病気をなくすとか、予防医学的に病気を発生させないという発想はほとんどない。それどころか、顧客のニーズにこたえて投薬したり、更には顧客の状態を発展させて、病気の世界に誘っていくことまで行われている。Mくんのケースは、まさにそういう構図を表している。そして、その経済効果によって業界が維持されている。
こうしたことを総合的にとらえると、Mくんは社会の構造的な矛盾をつくる当事者であり、犠牲者でもある。こうした矛盾の構造をホリスティックにとらえて、総合的に物を見ていく必要がある。個人としてのMくんの症状を治していくというのは、ある意味で対症療法。本来は、社会の病理としてホリスティックに捉えていく必要がある。本来、それは国の役割だけれど、政治家たちにはまだそういう考えが浮かんできていない。さらに物理的で、対症療法的な方向に向かっている。

Mくんのケアの過程で、僕らは彼に改善に向けたアドバイスをするが、本人はなかなかそれを受け入れられない。もちろん、本人に治す意思がないと判断したときはケアを受け入れないのが僕らの原則であり、アドバイスを完全に拒絶する状態ならケアは成り立たない。しかし、Mくんには今の状態が不健全であるという認識があるし、治したいという希望もある。ただ、改善に向けて積極的に取り組んでいくことがなかなかできない。そこで僕らのサポートが必要なのだけど、僕らが差し伸べている手を、彼がなかなかつかまないという現状がある。
そういう人には多少のプレッシャーをかけてそれをつかむように誘導することもあるが、Mくんの場合はまだその段階ではなくて、ある程度静観して、自分の現状は健全ではないという認識や改善したいという気持ちが彼の中に自然に育つのを待っている。そのときに、親が今まで家庭の中で示してきたような姿勢ではなく、けじめやリズムのある姿勢を示して、その中で彼の自覚が育っていくのを見守ることになる。そしてその自覚が生まれてきたら、少しずつ自分をコントロールすることを身に付けながら、薬を減らして、健康な意識を作っていくためのアドバイスを提供していく。
サポートする側は、本人に多少のプレッシャーを与える必要はある。親のように本人の言いなりではいけないし、社会のように無関心であってはいけない。そして、医者のようにそれを飯の種にしてもいけない。常に当事者とのキャッチボールの中で、必要なものを提供していく。そのときに、サポートする側が「改善したい」という感情を強く持ちすぎると、それを押し付けることになる。そうなると、本人の取り組みではなく、サポートする側の望みを実現する場になってしまい、良い結果には結びつかない。
だから、サポートする側は、自らにストレスがたまっていないかを常にチェックする必要がある。それが、サポーターとして適切な領域を守っているかどうかのバロメーターになる。そうすると、サポーターは役割を果たすことによって自己コントロールを学ぶことになる。
ここで大切なのは、サポートする側は何かを提供するのと同時に、ひょっとすると与えた以上のものをもらっている、ということ。病気という現象に向きあう中で、本人も、それに関わる人も、大切なことを学んでいく。本来、医療もそういうものであるべき。社会全体としても、さまざまな問題事をいただく中で、そこから学んでいく。そのような捉え方をする謙虚さが必要。どんな場所であれ、どのような学びであれ、学ぶときには、常に謙虚さがなければいけない。

Q. 今の社会には負の循環があるように思う。多くの人々は、社会にとって良かれと思って目の前のことを一生懸命やっているが、やればやるほど社会の負の側面を助長させていってしまうところがある。その社会システムに乗っかっている人に何かが足りないのだと思うが、それは何だろう?

人間の歴史の中で、人々はまだ現象を表面的にしか捉えていない。つまり、現象の奥にあるメッセージにまで目が届いていない。それは、目は見えているが、心の目は観えていない、ということ。
僕たちもいろいろな出来事に出会うけれど、主に意識しているのは、不幸だったり、歓迎できないような出来事。もちろん、いいことは嬉しいし、そこに喜びが生まれるのだけど、喜びがあるとさらにそれを求めるような心の構造が人間にはあって、「腹八分目」「足るを知る」と表現されるような、適度で満足するということがなかなかない。
これに対して、問題事であっても、その現象の奥にはメッセージがある。そのメッセージを見出すことによって、問題事から学べるし、それで満足できる。もちろん、喜びからも満足は得られるが、問題事から学ぶ喜びや満足の方が大きいし、深い。生きていくことはすなわち問題事に出会うことのようなものだから、そこに気づくと、生きることの意味や喜びが大きくなって、表面的なストレス解消型の欲求が消えていく。すると、Mくんのような症状を呈するものもなくなってくるし、そういった人たちを改善する医療もずっと健全な構造になる。そのようにして、Mくんにプレッシャーを与えるような社会構造もなくなってくる。
このように、Mくんという人を通して、より広い世界、家族や地域社会、国家、そして人類のテーマが見えてくる。その人類はさらに大きなもの、つまり生態系や地球、そして宇宙によって生かされ、維持されているわけだから、それを学んでいく機会になる。ただ、今の人類はまだその扉を開ける段階のちょっと前にいる。

Q. これはいたるちゃんに依頼された原稿のための話だけど、読者の人たちは社会主義に関わっている人たちが多い。その人たちに、これは良いメッセージになると思った。その人達は、あるいは時代遅れとも見られがちなのかもしれないけれど、社会の問題の奥にあるメッセージをとらえて、自分たちのできることをしていきたい、という真摯な想いを持った人たちだろうと思うから。

それは、まったくそうだろう。ただ、ある問題事に対して、特定の思想から答えを導き出そうとするのは、もう無理があると思う。そうではなくて、現象をいろいろな視点から科学的に分析していって、今度はそれを逆につなぎ合わせてホリスティックな全体像を見ていく。そうすると、この世界を維持している「意識」が働いていることがわかる。これからは、その意識を大前提においた思想を作っていく必要がある。
これまで、人間がこの社会を共同でつくることによって理想の世界を創り上げようという共産主義のような考え方と、個人の喜びを切磋琢磨しながら創り上げていくという資本主義の考え方があった。そうしたら、個人の存在を尊重する個人主義と、個人は全体の一部分であるという共産主義を合体させればいい。しかし、大切なことは、それを人間がつくってはいけない、ということ。宇宙や地球の生態系の仕組みをもっと科学して、その構造を知ったうえで、そこで個々の役割を果たしている生命として人間をとらえていく。自然界は個を尊重してネットワークしている。だから、社会もそのような形に持っていければ、資本主義と共産主義の合理性や有益さを合体させて、人類の次の目的を達成することができる。
そこでひとつ気づいてほしいのは、たったひとりの、ある意味で落ちこぼれとも言える40歳のMくんの症状を見ても、そこからは家族が見えるし、社会が見えるし、国家が見えるし、人類の今の状態が見える。そのように、ある問題ごとをホリスティックにとらえると、その病巣が大きなもので、人類に対して訴えかけるメッセージを持っていることがわかる。そういうことを見抜いていく目を、人々はこれから養っていく必要がある。

Q. そのために必要なことは何だろう。

それは、自分を正しく知るということ。必要なものと不必要なものが自分の中に入り混じっているのを整理して、社会や自分に健全なものをもたらすことのできる個人に自らを磨きあげていく、ということ。僕らはそれを「魂磨き」といって、個という我にとらわれない人間性を築き上げる作業をしている。それによって、さまざまな問題が解決されるだけでなく、同じ問題が起きなくなっていくし、まして病気は非常に少なくなってくる。病気も悪いものではなく、前向きにとらえられるものになる。社会の問題事も同じで、人々にネガティブな感情を発生させるものは、ポジティブにとらえることによって学びとなる。そして、それは個人や社会が進化していくことの材料となる。
大事なことは、我々がどういった社会をつくるか、ということの前に、我々はなぜ存在な目的に気づいたら、人間の存在が社会に負をもたらしていくようなことはありえない。 だから、まず自らがなぜ存在しているのか。もうひとつ言えば、自らを包含しているこの世界がなぜ存在しているのかを理解する必要がある。

Q. 共産主義は、人間の意識というのは社会構造によって規定される、と捉えた。

理想の仕組みを作れば、人間はそこにすべて当てはめられる、ということだよね。人間を物のように考えたのだろう。
それについては、対論を言わなくても、今まで共産主義や社会主義がやってきたことの結果が、答えを出している。ひとりひとりがオリジナルな生命であって、心の形もすべて違う。類似するものはいくつかに分類できるけど、個々は独立したオリジナルなものであって、それを尊重したときに自然の生態系のような多様性ある豊かな世界ができる。そのことに、そろそろ気づく必要がある。
制度を先に作りたい人たちは、人間の側から考えた理想や調和、バランスを考えるが、実は、宇宙や地球、生態系という形ですでに完璧な制度が存在する。その中にわれわれが生み出されているわけだから。人々はそのことをよく理解していないし、我々がその仕組みの中で生かされているということを十分に理解して、意識の中に取り入れるということをしていない。しかし、それをやっていく時代がようやく来ようとしている。人間意識から理想を作るという視点から、まずは我々は地球生命の中の一部分として存在しているのだから、地球意識から次の社会を作っていく、という視点に移るときがきている。
これからは、先に社会構造やシステムを変革しようとするのではなくて、個々が目覚める時代。自分が社会を作っている、自分から社会の変革が始まる、という新しい個人主義の時代。それは同時に、自然の仕組みのような個人のネットワーク、新しい共同の時代でもある。

こうして、Mくんの病気からはじまって、人類の抱える壁が見えてきた。人類にとってはたいへん大きな節目を迎えているということで、21世紀はそこを突破して次の社会をにらんでいるという状態。現代は本当に物質的には進化した時代でありながら、人々はたくさんの問題を抱えて、人類だけでなく地球の未来を憂いている。それほどの暗い時代であり、個々にも病気や自殺という現象が蔓延している時代にあって、負が大きければ大きいほど、次の時代には新たな価値観によって光がもたらされる。その夜明け前にいる、ということでもあるから、この世界を大きく、ホリスティックにとらえて、希望をもって歩みたいものです。

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ダイナミックに生きるとは?

2011 年 8 月 8 日 コメント 2 件

いさどん:人は目的を見つけると、目的を達成したいと思う自分とそれをやれないと思う自分が同時に存在することがある。そういった制限する自分をとっぱらうと、その人にとって新しい世界に出会う。それをとっぱらうことによって得られる快感を味わうことになる。しかし、とっぱらうことが苦痛になり、自分を守るようではそれを味わえない。ここ数日、自分でも少し感じるのは、思考が上手くまわらない。

ようこ:それはピトピが色々と変化しているからじゃないかな。昨日の夜、いさどんが大人会議に出るのをやめようかなと言ったじゃない?だから、寝る前に上の存在はどう感じているのかと思いを馳せていたら、上の存在は変化を観たいんだよね。例えば、面談でいさどんが相談者に語りかけることによって相談者の心がどんどん変化していくこと。大人会議の宇宙図書館でいさどんが皆の枠を超えた話を引き出されて語ることによって皆が変化していくことを、上の存在は観ている。それがいさどんが生かされ、皆が成長していくこと。

いさどん:それは確かにそうだね。それは今の宇宙の構造だから。もともとこの宇宙は全く変化しない世界だった。そこでは自分の存在すら感じられない、そこにあることが感じられない世界。変化することによって存在を感じられることになる。過去から未来へ、こちらからあちらへというふうに、これは全て変化だよね。変化を感じられるからこそ、自分という存在を確認できる。他者を感じるから、自分という存在を確認できる。

ようこ:そうそう、違いによってね。

いさどん:それで、地球を離れた外の世界をずっと観ていくと、変化しているようでほとんど変化していない。私たちの時間基準からいったら、極端に長い時間を表現している。ここの3次元世界だけを認識している人間にとって、その世界は安定しているように思えるかもしれないが、そこには何の基準もない。そこでは自分の存在をはかれない状態で、ただ、循環があるだけ。その約束されたサイクルの中で変化する。瞬間瞬間から、1時間、1日、1カ月、1年、人間でいったら一生、そういうサイクルを創っているにすぎない。私たちのいる地上では、そういった巨大な宇宙の縮小版を表現していることになる。私たちはその縮小された場所を舞台として、そこに立っている。そのカラクリを知っているものと知らないものと色々といる。それから、それを創った側のものたちがいて、私たちを観察している。それは知っているものの立場として観察しているものと、知らなくて観察しているものの両方が存在している。

ようこ:そうそう、私たちと一緒にカラクリを学びながら「なるほど」と感じているものたちと、私たちがカラクリに気づいていく様子を見ながら、さらに私たちがカラクリに気づいていけるように次なる現象を創り出していくものたちがいる。

いさどん:私たちを導いているものたちということになるのか。ようこちゃんが上の存在に心を向けるようになって、そこへ周波数を合わせる能力が高くなったから、そういった意志を受け取るようになった。ただ、ようこちゃんが受け取ったものをそのままようこちゃんが話しても、皆がぽかんとするから、それを僕が人間レベルの周波数に合わせて通訳すると、より皆が理解できる。

ようこ:私の中ではそれがあまりにも明快だから、そのまま話すことしかできないんだよね。

いさどん:その明快さは、特定の人にしか理解できない明快さだから。

ようこ:それを体験した人とか、想像できる人とかね。以前は無意識にそういう世界に行っていたけれど、今は自分で周波数を変えながら、今は地上よりにして大人会議でコメントする側になろうとか、今は上よりにして宇宙に情報を発信する媒体になりきろうとか楽しんでいる。

いさどん:瞬間瞬間変化する世界。その変化を恐れない。最初の話に戻るけど、ひとりひとり自分というものがあるでしょ。本来この世界はまったく立ち止まることがない、変化する世界。そこには特定した自分がないということが真実なのである。それが自我というものを持ったがために自分を守ろうとする力が働いて、変化することを恐怖に感じてしまう。だから、守ろうとする。しかし、実際には変化させようとする出来事が起こるのだから、守ろうとする心が実際に起こる出来事に対して恐怖を感じる。その恐怖を感じる基準はそれぞれにあって、ほんの少しの変化でも恐怖に感じる人もいれば、沢山変わってもそんなに恐怖を感じない人もいる。さらに、自分流に変化したいと思う人もいれば、自分自身の変化を喜びに感じている人もいる。変化をすることを恐れず楽しめる状態になったときに、この宇宙全体の大きな構造、変化していく世界を創った目的に沿っていることになる。しかし、その流れに抵抗するというのも、変化することを味わうためのプロセスである。だから、あるところから観ると、すべてが楽しみだという世界。そういったカラクリに気づいたものは、それに翻弄されずに楽しむ側に立つことができる。それに気づかないものは創られた側にいる。創った側と創られた側。それは構造的には本来区別がつかないものであるが。

自然を観ると、土、バクテリア、植物、動物、そこにありとありとあらゆる生命が絡んで、形を変えながら循環している。それ自体が変化する世界にあるけれど、そこから広く視点を離れて宇宙のサイクルで捉えると、その循環をぐるぐると繰り返しているだけで全く変化していないことにもなる。それが太陽系、銀河の構造。小さい視点で捉えると、形状が変わって変化しているように見えるが、それをもっと大きな視点で捉えると、ただのサイクルの一部にしかすぎないのである。ただ、そのサイクルも今が何サイクル目かとカウントしながら進んでいると考えると、変化しているということでもある。そういう太陽系や銀河のようなスタイルを細胞のようにして集合させている宇宙全体があって、そこには意志がある。その意志は一体何を表現したいのか?しかし、それはただそこにあるだけである。僕はその意志をつかもうとしたのだけれど、それをつかまえる必要はない。それがあってあるもの。そして、その意志はつかまえられない。なきてなきものである。

ようこ:そのカラクリに気づくと、上とつながって、変化も何でも楽しめる。

いさどん:そこで、視点をずっと身近なところに持ってきて、人間が自身に執着している状態を星のスケールで捉えると、星にも意志があって自分を認識しようと思ったときに、星にも我があって、こういう姿になりたいと思う心があるだろう。

ようこ:あるだろうね。違いや個性を我とも言えるしね。

いさどん:そして、それを願う星の魂が地球上に現れたことになる。僕はここ数日の自分に対して不満足だった。それは皆に自分の想いを上手く伝えられないことに対してのいらだちがあった。それはひとりひとりがその人にふさわしい歩みをしているときに、他の人が「これはこういうことだよ」とヒントを与えることはできても、その人に代わってあげることはできない。材料を提供するだけなのに、詳しく伝えようとする心が働くと、不満足が発生する。僕は今、そのことを感じたから、早速修正している。

ようこ:上の存在からすると、いさどんが言葉で上手く伝えようが伝えまいがそれはささいなことで、いさどんが揺るがない心をベースに人の変化、成長を促す存在としてここにいることが意味があることだから。

いさどん:変化するということには秩序というベースがないといけない。つまり、揺るがないという秩序を持って変化をしないと、単なる不安定になってしまう。揺るがない状態がベースにあるからこそ、安定して変化するということができる。変化しない状態を保ちながら変化するということが大切。それが先日大人会議で語った確信の話。しかし、多くの人には確信の話がまだまだ確信にならない。

ようこ:私は今朝いさどんと話をするまでは、いさどんの大きな役割は揺るがない、ぶれないことだと感じていたけれど、今こうやって話しながら、それプラス、いさどんは誰よりも皆に変化することを促す存在だと改めて知った。そのふたつは表裏一体のものだよね。

いさどん:ぶれないことは変化するベースにあるのだからね。例えば、心のシェアで「こんな失敗をしました。こうこうこういうことで反省しました」と言うとする。そこでどうアドバイスするのかというときに、そう思ったのであればそれをやめたらいい、とたったそれだけのこと。そうやってとらわれない変化をすればいい。

今もこのように難しく考えて、頭の中で思考を展開させているでしょ。物理的に形を持っているものにとっては、ただ話しているだけに見えるのだけれど、それは気づきというものを得ながら大きな魂の変化を伴っているわけだ。それを上の存在は観ている。そうすると、何も変化していないようで、これは大きな変化をしていてダイナミックな世界であることがわかる。逆に、ここのとらわれ世界で右往左往したり迷いの行動をしていたとしても、それは全く変化していない世界ということにもなる。人間たちは形にばかりとらわれて、変化しないものが多い。「何のためにおまえたちはその形を取っておるのじゃ?」と問われることになる。その目的は、形にももちろんあるのであるが、形の奥にある心の変化を表現することが一番大切なことなのである。それでは悟れない。

ようこ:悟りは境地ではなくて、変化し続けること。

いさどん:そう。変化し続ける中に身を置いて、変化し続けるものになりきるということに意味がある。昔、僕が神様にこんな質問をしたことがある。「この世界には法則があり、それに基づく仕組みがあります。どんなものにも存在する限り、目的があるのですか。この世界の存在する目的は何なのでしょうか」と問いかけた。すると、「その質問は私には答えられない。それは宇宙根源を司る神の意志である」と言われた。そこで僕は、「えっ、神様でも答えられないことがあるのですか?」と問うたら、「そなたは神を完全と思うておるのか」と言われた。それで、「神様が完全ではないとしたら、私は何を持って完全を求めていけばいいのでしょうか?」と聞いた。そうしたら、「神とて完全なるものはひとりもいないのである。神とは学び変化し続けるものである」と言われた。それで、「それでは私は不完全である神様の道をいただきながら、学び続けていけばいいわけなのか」と思った。その時に、神というのは絶対で不動なものであると思っていたから拍子抜けしたのを覚えている。完全なものがあるからこそ、その完全を目指して行くという希望が湧く。ところが、のれんに腕押しみたいな答えが返ってきたのである。でも、それが最終の回答、完全な答えなのだと思う。つまり、神の実態(この世界)は変化し続けるもので、特定できないものなのである。これは今から20年も前のことだった。これは自分の中では十分に理解していなかったけれど、今、それがわかった。あの神様はすべての中心の神ではなくて、ある特定の位置から出てきた神様で、こちらが問うたことに対して答えるのに少し苦痛が感じられた(ようこ、笑)。それは問うたものに対して答えたいという意志と、自らが途上のものであって答えられないという苦痛があったように思う。なんとなく今の自分の気持ちと重なる(笑)。あの時に問われた神様の気持ちは、今の自分の気持ちと同じだ!あーあ、ちょっと楽になった。

ようこ:面白いね(笑)。

いさどん:やっぱり責任感があって、答えなければ、そして問うものがあればそのものに回答を出さなければという思いがあって、その立場に立っていた。それでは楽しめない。無限の知恵の泉からは、場合によっては皆が理解できない知恵も湧き出してくる。だから、説明できないものもあるということを認めればいい。その知恵の全てはまだ理解できていない。しかし、数日前からの自分の思いに対しても、こうやってちゃんと答えが出てくる。結局、おさまるところにおさまる。

ようこ:いさどんと他の人との変化の仕方の違いは、いさどんはこうやって話しながら気持ちを整理しておさめていく。そうやって変化していくのは特異なことだから、それは上の存在たちにとっても興味深いところだよね。他の人だと、色々な人との心と心が刺激し合って活性して変化していくのだけれど、いさどんは自己完結型で自分で語って、私はそれを隣で聞いているだけ。私はいさどんを導いているわけでも、何か思惑を持っているわけでもない。ただ思ったことを言っているだけ。

いさどん:星は宇宙の中でそうやって自己完結している。しかし、それはダイナミックではない。星という存在のスケールはダイナミックだけれど。それが小さなバクテリアの世界のようなこの地球上の世界に来て、ここはスケールは小さいけれど、その変化をすごくダイナミックに表現し味わうことができる。

ようこ:そう、変化は激しい。

いさどん:そこだよ。それが星々が地球上に降りてきたがる要素。

ようこ:いさどんなんて変化が激しい典型だよね。どんどん変化していくから、実態がつかめない。まさに宇宙の仕組みそのまま。

いさどん:ヤマギシの人たちにも色々なタイプがあって、変化しないで守ろうとする人たちと、変化を求めて「変化しようよ!」と言っている人たちがいる。変化している世界にいながら、今までは守ろうとする力のほうが強かった。しかし今、変化の時代が来て、それに抵抗している人たちと進めていきたい人たちがいる。そうすると、変化はどちらのほうから始まるのかというと、陰性の流れから始まる。陽性の流れの人たちは「自分が」「自分流」というのが強い。それに対して、陰性の流れの人たちは「取り入れる」「引き込む」という力。そうすると、陰性の人たちのほうが変わらない力に対して被害者意識のようなものを持ちながら、変わる力を働かせる。普通、陽性のほうが先に動くように思うけれど、それは自己流に動く力であるから変化は少ないことになる。陰性は引き込む力だから、相手の存在を取り入れて変化する。それは本質的な変化につながる。

ようこ:そうだね、新しいものが入るから。

いさどん:そう。だから、人間たちはとかく勘違いしている。自分にとって都合良く変化するのを変化だと思っているけれど、自分にとって都合が悪いものを受け取ることによって変化するのが変化。それが陰性の変化と陽性の変化の違い。

ようこ:そうだね、陽性の変化は実は変化していない。根本的な変化じゃないということだね。

いさどん:うつに対しても、陰性うつと陽性うつというものがある。陰性うつの場合、陰性タイプの人は自分という意識が少ないから、それは欲しいという気持ちが満たされないということ。それに対して、陽性タイプの人は「自分がやりたい」という願望が強くあって、それを進めていくときに、欲求が強いと適度ということを忘れて強く進めすぎてしまうことになる。進めすぎてしまった分のギャップに問題が発生して、その問題が発生する痛みを味わうことによってブレーキがかかる。それが続くとそのブレーキが恐怖となり、痛みが繰り返されると、事を進めていこうとするときに痛みのイメージが先に来てしまって進めなくなるという状態。だから、陽性でも陰性でも進めなくなるということが起きる。進めなくなるというのは変化できないという状態。変化しないということは、この宇宙の根本的な法則から外れるということになる。この宇宙の根本が変化をもとにしているということは、陰性が根本なんだよ。陰性というのは形ではなくて、この形の世界を司っている法則であり、心のこと。だから、この世界の基本は心ということになる。無(陰性)から有が生まれる。観えない心から現象が現れる。その繰り返しが宇宙の実態である。

ようこ:いさどんは心の変化を促す役割をしているから、変化を恐れている人はいさどんを恐怖に感じる場合があるよね。

いさどん:「いさどんには心を見透かされそうだ」とかね。

ようこ:変化を楽しむ人は見透かされることが嬉しいもんね。でも、変化を恐れるということもこの仕組みの中に入っているんだよね。

いさどん:そう。だから、恐れることも正常なんだよ。恐れるからこそ、バネのように、弓のようにしなって、そして抵抗すればするほど、一気に変化する世界を創る。そうやって、どんどん変化していくことがダイナミックに生きるということである。

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心の中に種がある

2011 年 8 月 5 日 コメント 1 件

昨年の9月から3ヶ月半ケア滞在をしたゆかりちゃん。今年の1月からは一般滞在に切り替え、4月からはここに滞在しながらアルバイトもするようになりました。そんなゆかりちゃんが、6年前に統合失調症に至った経緯から現在の心境までを振り返り、以下のようなケア滞在記を書いてくれました。(なお、いさどんブログ「Yちゃんケア開始2ヶ月後の面談に同席して」には、ゆかりちゃんのケア途中経過の模様が記されています。)

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木の花ケア滞在記「心の中に種がある~三ヶ月半のケア体験を振り返って~」

木の花ファミリーを知ったのは、一昨年の夏のテレビ番組「自給自足物語」でした。その風景では、明るく楽しそうな食卓と、ダジャレを言ってるおじさんが印象的だったのです。その後HPがあることを知り、「おやじの館」などのブログをたまに見ていました。
 
当時私は統合失調症(二重人格)で、仕事(飲食店のアルバイト)をしていましたが、幻聴、幻覚、幻触に悩まされる日々でした。そして、その年の暮れに症状が悪化し、体のコントロールが完全に利かなくなり、仕事を辞めざるをえなくなってしまいました。精神科の病院に通院し、薬をもらいながらカウンセリングにも通っていましたが、症状はよくならず、どうしたらいいか考えていたのです。そんな日々を過ごしているうちに自殺願望が強くなり、それを病院の先生に打ち明けると「精神病院に入院しなさい」と言われ、それを拒んで、思い切ってこの木の花ファミリーでケア滞在をしてみようと思い立ったのでした。
 
そして、昨年の五月の初旬に体験ツアーで訪れ、いさどんと面談をしました。その時に「あなたは二重人格で嘘つきだね」と言われ、その通りだったので「この人本物だ、この人はすごい、この人を信じてここでやってみよう」と思い、9月16日からケアでの滞在をスタートさせました。
 
最初の頃、私は幻聴がひどく罵詈雑言を言っていることや、体の中が突っ張った感じがひどくあって、体のコントロールが自由に利かない、日常生活が送りにくいという状態でした。それは、山羊さんのお世話を一緒にしていたチナッピーの話を十分に聞けない、通常の意識すら保てない状態でした。また、心の方も硬く、緊張、不安もあって、当時の私を見て「暗いねー」と表現した人もいました。しかし、一緒に生活をするようになって徐々に硬さがとれてきて、リラックスする方法を自分で考えたり、自宅で過ごしていた時のように音楽を聴くという方法をとったりしました。断薬については、多分滞在一週間ぐらいから徐々に減らしていき、十日後位には最後に残していた統合失調症の薬も飲まなくなっていました。
 
滞在の日々の中では、自分を知る自己認識の作業を徐々にしていきました。面談の中でも言われましたが、私は自意識が強い。だから、自分の癖を認めにくい。そういう自分をとにかく知っていくことをやっていきました。初期の日記では、病気の症状のことばかりが記されていましたが、次第に自分はこういうふうに感じているという表現に代わり、いさどんからのアドバイス通り冷静で客観的な自分の目線を増やして、自分を有効に使う努力をしていくことに努めました。
 
それから、過去のトラウマの自己分析をする課題については、なかなか取り組めませんでした。自意識の強い私は、自分の非を認めたくない、他者からのアドバイスをなかなか受け取らない為に、そのテーマは進みませんでした。それは自己防衛本能が働いていたからのように思います。また自分を振り返っても、自分を客観的に観る精度が荒いということもありました。徐々に自己防衛をやめ、内省の精度が高まった段階で、いさどんとの面談で二重人格になった経緯を伝えられました。それは、幼い頃よりの習慣、感情の抑圧という癖で、特に就職という出来事の中で感情を抑圧しすぎてしまい、その抑えていた感情が自分の手を離れて暴走し、コントロールが出来なくなってしまい、現実逃避の果てに別の人格を作ってしまったということでした。いさどんがそれを解明したのは、私の中で周りや環境のせいにするのではなく、私の心の中に私が病気となる原因を作った種があることに気付いた頃でした。

私が思うもう一つの心の病気の種は、私が傲慢であることです。滞在して二ヶ月半後の日記にはこのように記してあります。「私は就職してから、ほぼ毎日自分の心をよく振り返ってチェックしていた。でも、傲慢になるにつれてしなくなった。それが原因だと思う。自分には足りない、出来てないと思う心が必要だったと思う」とあります。私には、家族や職場の皆に支えられて生きている事に感謝して、謙虚に学んでいく姿勢が必要だったと思います。それは、今でも私の大きなテーマです。時に不足の心が出てしまう事もあるけれど、本当に大切な人間の根幹だと思うのです。それに気付けた私は有り難いことを教えてもらったと思っています。そういったことに出会う心の種がある自分を知って、自己コントロールしていきなさい、実践あるのみだよということを最後の面談で伝えられたと記憶しています。私自身、そのことは今でも大切で、常に気をつけて心がけていかなければいけないことだと思っています。

現在、ケアを卒業し、生活体験を4ヶ月半、その後アルバイトでウエイトレスを続けて2ヶ月半となりました。まだまだ自分をコントロールすることが出来ず、不安定に陥ることもあります。それは、自分がまだまだ未熟だということを教えてもらっているのだと思っています。今は自分の考え方の癖、傾向をもっと把握して、改善していき、よりよい自分になる為の努力をしていく段階であると思っています。自分の病を克服し、まだまだ自意識や癖の強い私ですが、この病気を通して一つ勲章をいただいた様な気もしています。今後は少しずつですが、同じ病を持つ人の力になれたらと思っています。

いさどん、陽子ちゃん、まり姉ちゃんのケアサポートチームを始め、ファミリーの皆様には大変お世話になりました。色々と出来の悪い私に、時に暖かく、時に厳しい言葉をかけていただいて本当にありがとうございました。そして、送り出してくれた父、母にも感謝しています。ありがとうございました。

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そして、大人会議でケア滞在記を発表したゆかりちゃんに、いさどんは次のような言葉を送りました。

いさどん:
統合失調症を一般で言われているように一生治らない病気と捉えるのではなく、「この人は良くなるかもしれない」と可能性を感覚的に捉えて取り組んだら、統合失調症でも良くなる場合があります。今ここに滞在しているSくんは、ここに来る前に10年間精神病院に入院していましたが、今は幻聴・幻覚がすっかりなくなっています。ところが、お医者さんは統合失調症を治らない病気と決め、ほとんどの人は生活から薬が切り離せなくて生涯を終えていくのです。

しかし、実際にゆかりちゃんと接してみて、僕はどのように本人から「自分が病気である」という思い込みを外していくか、そして思い込みを外したかわりにそれをどのように捉えていったらいいのか、ということを伝えていった記憶があります。それは良くしようとかではなく、目の前にあるとっかかりから進めていっただけです。結果、薬が必要なくなり、薬がなくなっても症状が変わらない状態になってきました。ゆかりちゃんはケアとして滞在する期間が他の人よりも長かったのですが、徐々にゆかりちゃん本来の健康な性質が出てきました。

ある段階を経て、家族からの経済的な支援も超えて自立するための取り組みをしようということで、今はアルバイトに行っています。そこでは1度や2度は弱音を吐いたり、トラブルが起きるだろうと思っていたのですが、全くそういったことはありませんでした。ケア滞在期間やその後の一般滞在の時でも、あんなに色々と声をかけてきたのに、今彼女は自己コントロールしながら上手に世の中を歩んでいます。だから、ゆかりちゃんの存在は僕の中で最近は薄いのです。濃い人は気になる人で、問題を持っているからこそ気になるのですが、最近は全く気になることがないので、以前はとても気になる人でしたから、とても不思議な感じがしています。

これは大分良くなってからのことですが、ゆかりちゃんが面白いのはいつも一生懸命で、見えないところでも一生懸命仕事をするのです。人に評価されたい人は見えるところだけやって、見えないところは手を抜いているものですが、ゆかりちゃんは見えないところでも一生懸命やるのです。時々やりすぎていた時もあり、「無理しないようにね」と声をかけていたこともあったのですが、最近はまったく声をかけなくても安心して見ていられる人になりました。

ゆかりちゃんは滞在記の中で、「一つ勲章をいただいた様な気がする」と書いてあるのですが、僕はぜひ精神医療業界からゆかりちゃんを健康にした功労者として勲章をいただきたいと思います。世の中では、まだこういうことを信じられない人たちもいます。本当はこういう取り組みをもっと大切にして、いのちを金儲けの対象にしてはいけないと思うのです。そういう世の中にしていきたいと思っています。

ゆかりちゃんの言葉にあるように、これからも同じ病を持つ人、つまり他者の為に生きる人になってもらいたいと思います。

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めいちゃんのケア分析

 4月20日から2カ月弱、ここでケア滞在をした41歳のめいちゃん。卒業コンサートの時には自らの想いを正直に綴ったケア滞在記を読み上げてくれました。今回は、そのケア滞在記をご紹介したいと思います。

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二年前に木の花ファミリーを知り、ホームページにある「おやじの館」(現 心の湯治場)をずっと読ませてもらっていました。精神の薬を飲むようになってから、かれこれ18年以上たちます。最初は抑うつ神経症だとか鬱病と診断されていて、躁の症状が出るようになったのは7~8年前くらいだったと思います。 これまで心の病に効果があるといわれることはたくさんチャレンジしましたが、どれも効果は持続しませんでした。

木の花ファミリーへ来れたのは、完全に行き詰まり木の花ファミリーに賭けるしかなくなったからでした。そううつ病よりも集団恐怖や対人恐怖症のほうが実は辛い私にとって、ここへ飛び込むことは大変勇気のいることでした。24時間生活を共にするということは私にとって大きなプレッシャーでした。

 *各種依存症の克服について*

ここに来た当初、私はニコチン中毒・薬物依存症や共依存症(人への依存)などあらゆる依存症を持っていました。何かにもたれていないと保てない、とても危うい自分でした。今後も誘惑に負けないコントロールが必要です。 最初に苦労したのはタバコでした。一日一箱だったのを一日5本~3本と徐々に減らしていき、禁断症状もどうにか乗り越えて一週間ほどでやめれたと思います。ここに来た時点で精神の薬は6種類あったのですが、一週間経過した頃2種類のこううつ剤と1種類の躁の薬を思い切ってやめました。睡眠薬や躁のお薬はやめるまでにかなり時間が掛かりました。最後に躁の薬をやめたのですが、一ヶ月と10日も掛かりました。ケア滞在史上で最高記録になったのではないでしょうか? 今思うと、これらの依存症は寂しさを紛らわす一時的な手段であり、自分と向き合う苦痛から逃避する手段でもありました。ここの環境なくしてはどれもやめることはできなかったと思います。精神的に自律している人たちの中に入る体験ははじめてなのですが、特定の人を拠り所にできないということは、私にとって補助輪のない自転車を一人でこぐくらい不安で心もとないことでした。今でも誰かにもたれたい傾向はあるのですが、その誰かがいなくても大丈夫な自分もできてきて新鮮な感覚です。

*高い精神性と多様性がもたらす効果*

木の花ファミリーの高い精神性には圧倒されっぱなしなのですが、それにつられていくと誰に言われることなく、自然に自分の問題点に気づいて修正していけるところがとても良いです。集団なのでたくさんの考え方にいつでも触れられ、自分の偏りに気づくことでバランスが取れるんだなと思いました。そして相談を持ちかけるとみんなが手を止めてでも我が事のように懸命に話を聞いて一緒に考えてくれます。これは一般社会ではほとんどないことで、一人ぼっちじゃないと実感させてくれました。これはうつが回復する大きな要素だと思います。

いさどんから私の中の独特な個性や発想のユニークさを生かすと人間関係も良くなるよとアドバイスをもらいました。具体的には、たとえ話をすることが得意だとまりねぇが教えてくれました。その場その場で思い浮かんだイメージを口に出しているのですが、それが場の雰囲気を和ましているなという実感がありました。最近でいうと、子供たちが入った後の浴槽のお湯のにごり具合を見て「はまぐりのお吸い物もこんな色してるよね」と言って、“さすがめいちゃんらしい発想でユニークだね”というような反応がありました。

私はいじめや虐待の多い人生を送ってきたため、とても長い期間心に分厚い鎧をつけて閉ざすことで自分を守ってきました。そんな私にとって“正直・素直・信じる”の中の正直の部分で、隠し事をせず心をさらけ出すということは驚きでした。ここにいると、どんな醜い自分でも許されているのだなと心の狭い私は申し訳ないようなありがたい気持ちになり、心がほぐされました。2ヶ月の滞在でもまだ自分を出し切れておらず、今後の課題となりました。木の花ファミリーが心磨きをしている内容はそのままケア滞在する者にとって短期間で癒しをもたらすものとなっていると実感しました。

さて、薬をやめることはできたけれど、病を引き起こしている心のあり方のほうが改善されていません。その心のあり方というのは私の場合、被害者意識と不平不満や愚痴が多いというところです。これは今後一番大きな課題となりました。それから自分を許すということも課題です。また一人で行き詰まったら、長期滞在で勉強させてもらいに来ます。そのときはよろしくお願いします。

今後はいさどんからも提案してもらっているように人の心をケアできる人を目指す方向で歩んでいきます。私の分析力や洞察力は人様に有効に使える考え方に切り替えていきます。

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卒業コンサートの後、みんなに見守られながら、ご両親とお兄さんと一緒に帰っていっためいちゃん。めいちゃんの特徴は「独特な個性」と「賢さ」です。今まではその個性を人に理解されないと孤独に感じたり、賢さを不平、不満のエネルギーとして使ってきた結果、鬱病が発症するまでに至りました。これからはめいちゃんらしく生き生きと、その高い分析能力や心理学を勉強してきた知識を世の為人の為に生かしていってね。私たちは家族なのだから、これからも心を学び続けながら、共に歩んでいこうね。

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昭和天皇が現れて

今回のブログはようこが昭和天皇にまつわる話を大人会議でシェアしたところ、いさどんが昭和天皇様とのエピソードを話してくれたので、みなさんに紹介します。

PDFファイルはこちらをご覧ください

ようこ:5月に入ってから夜休んでいると、衣冠束帯の姿をした方が自分の前に現れるようになりました。でも、表情は見えなかったので、「この方は神様でおられるのか、亡くなられた人の魂なのか、誰なのだろう?」と思っていました。そして、いさどんの生前葬の翌日の夜にその方の顔が浮き上がり、それは昭和天皇であることが分かりました。

今朝いさどんに会った時、自分の中に同じ姿をした昭和天皇がまた現れたのですが、特に言葉はなく、ただいさどんに会いに来たようでした。いさどんの生前葬前後に正装で現れた昭和天皇は、いさどんに「よろしく」と言っているようでもあり、また肉体を所有しない世界に「ようこそ」とでも言っているようでした。

以前、いさどんのもとに昭和天皇の魂がいらっしゃり、「日本をよろしく」と言われたという話を思い出し、いさどんに「その時の昭和天皇もこのような姿をしていらっしゃったの?」と聞いたら、「雰囲気としてはそんな感じだったね」と言っていました。いさどんの生前葬の最中は昭和天皇がいらっしゃっているという感覚はなかったのですが、きっとこの祭事にも参列しておられたのだと昨晩思いました。

いさどん:僕が30歳の12月26日から(その以前からおばあさんとの間にはありましたが)、上からのメッセージをいただくようになりました。そして、しばらくしてから「1000日の業をいたせ」という言葉が降りてきたのです。「何をしたらいいのだろう?」と思っていましたが、その日から毎日瞑想をすることになりました。1000日、3年間(3×365日=1095回ほど)、瞑想をしました。その1年後、今から29年前の1982年、昭和57年頃、僕は幽体離脱をするようになりました。その極みは、瞑想の最中に宇宙へ飛び出して、地球を見てくるというようなことが起こりました。背中に月があり、目の前に地球がある。地球を外から見て、地球と人類の関わりを転換しなければと思ったのです。人類は地球のガンのようだけれど、人類を地上に降りてきた本来の目的に目覚めさせなければいけない。その体験は僕の世界観に大きな影響を与えました。

それから7年、日々霊的な対話を天としながら真面目に歩んできました。自分に理想がありながら、同時に自分の非力さに悩んできました。ブッダから道をいただきながらも、そのマスターに専念して世の中に伝えることが充分にできていない状況でした。当時も毎日相談者が僕のもとに訪れてはいましたが、自分の中にはどうしても不足感がありました。

昭和63年に昭和天皇が病気になられました。その当時は瞑想をする時は病床に伏している昭和天皇に心を向けていました。亡くなった時に僕は天皇を思い浮かべ、言葉をかけていました。「私は今、天からこの国、そしてこの世界の行く末の道を開くようにと命をいただいている者です。しかし、私はいっこうにその役割が果たせそうになく、悩んでいます。私のような力のない、名もない、影響力のないものがそのような命をいただいても、志だけが高く空回りして、歯がゆい思いをしています。あなたは天皇と言われるくらい有名でもあれば、大きな影響を持っておられる方です。あなたが肉の体を持っておられるうちは、私のような者はお目通りなどできない関係でした。しかし、あなたはこの国の象徴として、大きな役割を果たされました。私は何でもないものであっても、この国の将来、人々の未来について大きな使命を自覚しています。私はあなたが肉体を持っているうちは、あなたに問いかけをすることができない立場でしたが、肉体を離れられたのなら、私の言葉はあなたに通じているはずです。あなたの大きな影響力をこの世のために、私に貸して下さい。それはあなたの意思でもあるはずです。」

そのような言葉を瞑想中に投げかけていました。そうしたら、ある映像が浮んできました。地上から光の玉を先頭に、光のラインが天へ昇っていく。それが目の上45度くらいまで上がった時に、下からぶわっと無数の、例えるならとなりのトトロのまっくろくろすけのようなものが、中心の玉に向かってまとわりついたのです。その時に、叫びが聞こえました。「昭和天皇様―!」と慕っている心、そして「昭和天皇めー!」という恨みの叫び。水風船のようなぶよぶよの玉が光の玉に向かっていき、巨大な玉になっていきました。その時に、僕は理解できました。この方は沢山の魂の目標になって、慕われたり、恨まれたりと、それほど地上で大きな役割をされて亡くなった。そのかたまりが大きくなって回りだした時に、天から光の柱が降りてきて真ん中に刺さりました。そうしたら、黒いかたまりは散り散りになり、光の玉は天の光に引かれて昇っていったのです。その時に、「昭和天皇様は現人神だった」と思いました。昭和天皇は、金星に帰って行ったのです。僕は金星から来た魂ですが、この方も金星から、人類を目覚めさせる役割として降りてきたのだと思いました。僕は本当はこれからやることについて力になってほしい、ということへの返事が欲しかったのですが、それを見て返事はいらないと思いました。

数年後、愛知県の春日井市にあるマンションの内装の仕事をしていたら、後ろの壁の角あたりに誰かがいる気配がしました。振り返ったら、昭和天皇様がいらっしゃいました。「えらい所へおいでになりましたね」と言ったら、この方は非常にかしこまって挨拶をされました。「その節は、私に声をかけてくださったにもかかわらず、何も返答をせずにおり、大変申し訳ありませんでした。あなたがどんな方かということがわかりましたので、改めて挨拶に参りました。日本の国をよろしくお願いします。」天の神々は、日本のことを「日の本の国」と言いますが、昭和天皇様は肉の体を持っておられた方なので、「日本の国」とおっしゃいました。改めて自分にそう言われて、「そんなことが自分に出来るのだろうか」と疑心暗鬼の状態でその言葉を受けました。それが1988年、僕が37歳の時のことです。

それから2年と少し後、39歳の時、僕は9年間のお釈迦様からの学びを終え、日の本の神々から命を受けるようになりました。それと同時に12歳年上と12歳年下のシャーマンと関わるようになったのです。年下の方のシャーマンのお母さんから、ある時電話がありました。「今、昭和天皇様がおいでになっています。すぐ来てください」と。夜の11時頃だったと思います。名古屋市守山区にあるその家に行くと、昭和天皇がシャーマンの中に入られて待っておられました。シャーマンは、昭和天皇様の顔をしていました。雰囲気もそのままです。そして、「先日は、突然あなたの仕事場に行き、失礼しました」と言って、あのマンションの話をされるのです。シャーマンはそれをまったく知らないのに。霊的なものへの確信はもとからありましたが、その時にこの出会いは本物だということを確信しました。

そして、それ以後も昭和天皇様は事あるごとにおいでになりました。創立メンバーの中にはその場面に立ち会った人もいます。シャーマンのいくよさんは、言葉のトーンから雰囲気まで、どう見ても天皇がおられるという感じでした。僕にとって昭和天皇はふるさとが一緒のお友達のような感じです。宗教の教祖のような人たちの中にも霊的なお友達がいますが、昭和天皇は特に親しい感じです。

今朝、たまたまようこちゃんが先日の生前葬の時にも昭和天皇がいらっしゃっていたと言いました。「最近会ったことのない人が私の所によくおいでになる」と言い、「それが昭和天皇だということがわかった」と言うのです。過去には沢山交流がありました。ようこちゃんがそういう霊的なものをいただき、今日この話をしてくれて、僕も思い出しました。

天皇家は今も息子さんが天皇をやっておられますが、昭和天皇までが現人神。ここから先は現人神と言えるか難しいと思います。我もあれば、執着もある。昭和天皇のように、我がなく、世のため人々のために生きられる魂は、これからの天皇家には降りて来ないのではないだろうか。

そうやって、僕は普通の人が出会えない霊的なもの、理解できない人には怪しい世界の出会いを沢山もらってきました。そして、その時々で近くにいる人にそれを語ってきました。そうすると、私たちの日々の歩みの先に別の所からその裏付けが現れたり、物理的に証明されたりするのです。今ここに集っている人たちも、この不確かな話が真実として裏付けられることで、「信じる」という心が生まれ、ともに歩んできました。理解できることを信じるのは当たり前の話です。それは信じるとは言えません。わからないことを信じられるのが、信じるということです。不確かなことでも大事と思うことを語り合いながら信じて歩むと、その先に色々な形で答えが現れてくるのです。そうして、この信頼の場が出来てきました。

最近夜寝る前に、宇宙(銀河の雲)をイメージして、宇宙を司る神々、神界を司る神々、そして地上の聖者、聖人たちといった名前を挙げ、そういったものたちにこの地球の人類を救済するため力を結集しましょうと呼びかける瞑想をしています。それが必要と思った時にその瞑想をするのですが、その影響なのか、5月3日、昭和天皇様もその呼びかけに応じておいでになったのではと思います。今まで重要な役割をしてこられた霊的な人々、また肉体を持つ霊的意識の高い人たちが結集して、新しい扉を開く時が来ています。

れいちゃん:私も過去にそういう場に居合わせました。空気で、昭和天皇がいらっしゃるのがわかりました。本当に真実。記憶では、昭和天皇は「庶民はいいな」とおっしゃっいました。

いさどん:みんなでコタツに入ってみかんを食べていたら、「庶民の生活はよろしいですね」とうらやましそうにその場を眺めて言っておられました。

まりちゃん:立っている姿、姿勢が印象的で覚えています。

いさどん:こういうふうにね。(と言って、前かがみになり手を前にかざす。)

のりちゃん:ちょっと前かがみで。

いさどん:話を終えて「今日は失礼します」という時に、そういう姿勢をとられていました。

かずこちゃん:懐かしい話。またこういう話が出るようになり、国のために、そういう意識を持ってやっていきたい。身が引き締まる気持ちになりました。

まりちゃん:私も、懐かしい。当時を思い出しました。本当に、信仰から始まった。始まりがそこだった。今でもそうだけれど。昔は「天に心を向ける」が合言葉でした。何か問題が起こると、「上に心を向けるのが足りなかった」と自分たちの心を振り返ってここまで歩んできました。今でも人は増えて一人一人の言葉は違っても、同じ方向を向いている。将来も形は変わっても、そこだけは変わらずにずっといく。

たっちゃん:生前葬の時に感じたのは、これからは地上も天界も、八百万の神と肉体を持つ我々とが密に協力し合って、ともに作っていくことが必要だということ。僕らはこういう生活をしていて、志ある者が一人一人目覚めていき、ブッダやイエスとして協力し合っていくのだから、いさどんの行なっているその呼びかけは大切。思いを結集させるということを自分自身もやっています。

いさどん:その呼びかけは、「どうか皆さんの思いを結集させて、この地球人類を一つの道に導くことをやっていきましょう」という瞑想です。そのような絵空事なことをやってきて今、ここにこういう場が出来ています。いい加減ではない、本当に信じてやる時代です。やった人はそれに相応しい役割を果たしていきます。わからない人にはわからない。しかし、わからないことを信じていくのが、いかに大事かということです。それを意識して真剣に取り組んだものは、確実に霊的な成長をしていきます。私心を離れて世のために祈ることをすれば、確実に育っていくものです。今は見えないかもしれないけれど、信じて歩んでいくと、未来にその裏づけが待っているものです。そして、確実に自分が成長しています。

人はいつか必ず死ぬものです。60年も70年もあっという間に来てしまいます。その時に、本当の尊厳が身についていて、これこそやるべきことをやり遂げたと大満足で往生が出来るか。本来、それが人として、地上に肉の体をいただいた目的、学び、なしえる、最も大事なことです。できれば、己を置いて世のため人のためにこの心を使いたいものです。それが菩薩行。ブッダとして、キリストとして生きることということです。昭和天皇の心は人々の「安穏で幸せな日々を願っております」という心そのまま、菩薩を生きた方でした。

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いさどんが行なっている瞑想は以下の通りです。よかったらみなさんも試してみてくださいね。

★この瞑想は蓮華座を組んで行なうのもよし、上向きに寝た状態で寝る前に両手や体全体、意識を天に向け、宇宙から地球の魂たちに呼びかけるという気持ちを込めて行なうものです。

天之御中主大神(アメノミナカヌシノオオカミ)

高御産巣日神(タカミムスビノオオカミ)

神産巣日神(カミムスビノオオカミ)

伊邪那岐命(イザナギノミコト)

伊邪那美命(イザナミノミコト)

国常立命(クニトコタチノミコト)

天照大御神(アマテラスオオミカミ)

木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)

八百万大神(ヤオヨロズノオオカミ)たちよ

イエス・キリスト

ゴータマ・ブッダ

ムハンマド

ソクラテス

孔子・孟子

諸々の聖者たちよ

出口王仁三郎(でぐち おにさぶろう)

出口なお

中山みき

岡田茂吉

五井昌久

山岸巳代蔵

昭和天皇

ガンジー

マザー・テレサ

諸々の聖人たちよ

今、集い、地球の人々の心の扉を開けよ

★あなたが想い当たる神々、仏、聖者、聖人たちの名を想い浮かべればよいのです。声に出して唱えてもよい。

★宇宙を司る魂、地球神界の魂、過去の偉大なる聖人、聖者たちの導き・教えが今までは地球上でバラバラになっていました。7人の聖者(天照大御神、イエス・キリスト、ブッダ、ムハンマド、ソクラテス、孔子、孟子)が現れた時にその聖者たちから感じられたメッセージは、「道は一つ、心は一つ」。しかし、現実には人々の中に道はいくつもあって心は一つになっていません。それを一つにしていくために行なうのがこの瞑想です。天からの意志を受け取り、その意志に目覚めたものとして「私はその意志に目覚めたものです」と、地上から天に向かって呼びかける瞑想です。

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人生は一本道

農業高校の先生を目指していた24歳のカトケンは、昨年1年間自然農法センターで学び、今年の1月からは1年間の予定で木の花で農業研修を受けていました。2月下旬のある日、「自分について知りたい」ということで、いさどんと面談の場がもたれました。

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カトケン:
今日は「自分のことを知りたい」と思って面談を申し込みました。あと、「心を磨くというのはどういうことなのか」と「家族関係について」も聞きたいと思っています。よろしくお願いします。

いさどん:
まず、自分のことも、心を磨くのも、家族についても、なぜそういうことについて知りたいという発想が生まれてくるのかということです。自分の内から湧き出てくる感情や欲求は、理由があって湧き出てくるわけです。人間というのは思考を持っているものです。その中で賢明な思考を持っている人はなかなかいません。たいていは不健全な思考を持っていて、それを外に出すことと内に秘めておくことを使い分けて生きているのです。だから、人間は高い能力を嘘つきの方に使っている人が多いことになるのです。

カトケン:
嘘つき・・・?

いさどん:
普通の人間というのは本音と建前を使い分けて生きているということです。そうやって、日々ひとりひとりが自分の物語を生きているわけです。持って生まれた魂にふさわしい自分自身を出していくことが正直ということです。それに対して、正直を出そうとした時にそれを許さない環境をもらっている人もいます。

例えば、あなただったら「賢太」という陰性で物事に対して積極的に行動をとれない人が、陽性の父親と母親のもとに生まれました。父親は「物事はこういうもので、こうすれば良いのだ」と自分の世界で自己満足に生きる傾向の人です。こういう人は頑固者で自分の考えを曲げない人です。

カトケン:
そうですね。

いさどん:
他人のことを見れば、「あれはああだから、こうなんだ」と決めつけるくらい、自分が強く頑固者です。そういう人と、あなたの母親のような自分が強いタイプの人が一緒になっていること自体がストレスです。どんな事情があっての結婚なのかは知りませんが、これは珍しい組み合わせです。62歳と61歳で僕らの時代だから、恋愛もOKの時代だったからね。団塊の世代だし、神田川や同棲時代が流行っていた頃だから、意外と自由だった。そういう時代にこういう組み合わせで結婚をしたということは、何か事情があって結婚したということだと思います。今、父親が62歳で母親が61歳で3人兄弟の長男のあなたが24歳だから、これを計算すると、あなたは父親が38歳の時の子どもです。そうすると、結婚が遅い。子どもが出来ない期間が長かったのではなく、結婚するのが遅かった。だから、「歳が来たからということで結婚しよう」というように結婚をした人たちだと考えられます。

それから、お父さんは魂がごついタイプの人にも関わらず、次男坊で三人兄弟の末っ子です。お父さんが家の後を継いでいるのですか?

カトケン:
酒屋があるのですが、一つではなくて二つあるのです。

いさどん:
そうすると、長男と次男で別々に後を継いでいるということ?

カトケン:
そうです。

いさどん:
お父さんは次男だけれど精神的にはリーダー的タイプです。魂の形を観ると、本来長男、次男が逆であるべきなのですが、そうすると、お父さんのようなタイプの人は「俺は次男だけれど兄貴よりは筋が通っているし、家を継ぐこともふさわしい」という自負心があるのです。自分が強く、他者の側に立ってあまりものを見ないタイプです。

それに対して、お母さんは理論的でおせっかい焼きなタイプです。どういうおせっかいを焼くのかというと、「こういうふうじゃないとダメ、ああいうふうじゃないとダメよ。こういうふうにしたら、ああなってしまうから、こうしないとダメよ」というふうです。その心が特に強く現れるのは子どもに対してです。パートナーが自分の思い通りにならずに対立関係にあるから、そのはけ口が子どもに向けられることになるのです。そうすると、第一子で長男として生まれたあなたは、子どもの頃から母親の思うがままに育てられる対象でした。あなたは親が言うことに対して応えてきたけれど、この場合親の能力が高いので、ある時あなたが親の意向に沿わないと気づいた時に、「これは仕方がない。子どもには子どもの人生があるのだし、私たちのことは私たちで考えましょう」という結論に到達します。つまり、親は他人に対して依存しない体質なのです。

しかし、親が子どもの頃からあなたに対して期待をかけてきて、それに対して応えようとしてきたあなただったから、あなたの中に本当の自分を表現出来なかったという感情が残っているのです。

カトケン:
・・・そうですね。

いさどん:
今、弟たちふたりはどうしているの?

カトケン:
ふたりとも東京に住んでいて、東京農業大学に通っています。

いさどん:
なぜ、農大なの?

カトケン:
お父さんが「これからは農業が大切だ。今後環境が悪くなっていくから、そういうことを学んでいきなさい」と言っていたからです。

いさどん:
「もう、俺たちの頃のような仕事の時代じゃないぞ」ということか。

カトケン:
はい。それは小さい頃から言われてきました。

いさどん:
ただ、親が考えて親の言う通りに進んでいく人生というものは、誰でもある時気づく時が来るのだよ。「俺って本当にこれがやりたかったのだろうか?」と。お父さんからしてみたら、「これからは時代を読んで、こういうふうだから、こういうふうにしなければいけない。俺の言うことは間違いないから、こうしなさい」と言うのだろうけれど、それだけで子どもは納得がいくのかといったら、無駄もやりながら成長していくんだよ。

あなたは真面目に親の言うことを聞いて、大きくなってきた。真面目なのだけれど、自分流の道の探し方、それは親というものと距離を置いて自分の道を探そうという心が出てきているのだろうと思う。それはなぜかというと、親の方からしたら親の思う通りになっていないという感情があるからです。

カトケン:
それは僕に対して・・・?

いさどん:
親からしたら子どもであるあなたを見て、「俺たちの思う通りになっていない」という感情があるのです。しかし、この親は能力が高いから、「まあ、仕方がないか」というところで納得しているのです。そこで親子の気持ちにギャップがあります。しかし、それよりもあなたの中には今までずっと親の存在が大きかった。それに対して、すっきりしていないあなたがいるのです。いつも自分のどこかに親というものの存在があって、そこから自立出来ていないあなたがいたということです。今後も、彼女が出来たり、結婚して家庭を持ったり、いつも人生の節目の時に親というものがあなたの頭の中に浮かんでくるのでしょう。

カトケン:
浮かんできますね。

いさどん:
しかし、親はあなたの希望がわかってきたから、もうあなたを自分たちの思い通りにしようと思っていないのです。ところが、特に身近な他者(親)に影響されてきたあなたが今もいるのです。親との気持ちにギャップがあるということです。それはあなたが親に対して依存しているからです。そういう気持ちがなければギャップなんて気にせず、距離が出来てくるから問題ないのだけれど、それだけ親との関係が深いからギャップを感じるという状態です。つまり、親から自立出来ていないということです。それが今のあなたの状態です。

本当はそろそろ自立して、「自分がどう生きるのか?」ということを捉えていくことが大切だと思いますが、どうですか?

カトケン:
何かを決めようと思う時にやっぱり親の顔が浮かんできて、自分で考えていてもどこかで親に方向を変えられるのではないかと思ってしまいます。それで今やるべきことに集中できなかったり、苦しい時があります。

いさどん:
あなたはずっとそうやって育てられてきたのです。さて、ではこれをどうするのかということはあなたの意志です。自分の本音のところを出したらいいのです。今まであなたは本音のところに問いかけるということをあまりしてこなかったはずです。どうしても他人の顔色を見て行動してきたあなたがいるのです。自分の奥にあるものに「本当に自分がどうしたいのか?」ということを問いかけ、それを引き出すことが出来るかどうかです。

カトケン:
僕は正直に生きたいです。

いさどん:
そういう意味では、今まであなたは嘘をついて生きてきたのです。今まで嘘をついてきたから、「正直に生きたい」と思うのです。今まで人の顔色を見て育ってきたから、正直を出せずに生きてきたということです。では、正直に生きるというのは具体的にどういうことですか?

カトケン:
例えば、その時その時で進路を決めていきたいなと思います。

いさどん:
そういう抽象的な言い方ではなく、人によっては精神性の熟し度が色々だから一概には言えないけれど、例えば「自分はこういうふうに生きていきたい」という方向性がすでにあるのかどうか?

カトケン:
まだ具体的にはありません。

いさどん:
でも、今ここで暮らしているよね。これももしかして、親が「これからは農業の時代だ」と言う延長にあること?

カトケン:
いや、自分の意志でここにいます。

いさどん:
ということは、親が言ったこととあなたの中にある目的は一致しているから、今ここで生活していると思うのです。

カトケン:
ここに答えがあるというのはわかります。

いさどん:
ここに答えがあるというのは、ここというものをあなたがどう捉えるかによってここに答えがある場合もあれば、そうでない場合もあるのです。そうすると、あなたにとってここに答えがあるということでないといけないのです。

カトケン:
僕にとってここに答えがある・・・。

いさどん:
私たちはここに答えを見出しているからここで生きているけれど、人によって価値観は色々あるのです。だから、その答えをここに見出した人にはここに答えがあるのです。あなたがそれに共鳴して、自立した個人としてここに答えがあると思うのであればいいのだけれど、「何だか楽しそうだから」とか「自分にとって都合がいいから」ということで駆け込み寺のようにここにいるのだとしたら、ここに答えはないわけです。ここの人たちは常に自立した人たちで、誰かについてきたり、親が言うから生きてきたということではないのです。そうすると、ここに答えがあるというのはあなたが自立して誰にも影響されないところで、「自分の人生の答えがここにある」と考えるのであればいいのです。

カトケン:
はい。こういう生き方が自分の目指している生き方だなと思います。

いさどん:
あなたは真面目だからね。それを「不真面目になりなさい」とは言わないけれど、これが大切な道と判断した場合はそれでいいわけです。それも個人の意志だから。僕の場合は30歳まで色々やってきて、この道に出会い、40歳から今の生き方を歩んできました。でも、あなたのように24歳にして大事が見つかって生きていくことは無駄なエネルギーを使わなくて済むし、それはそれでいいと思う。

僕の解釈からすると、この道は最終到達地点のようなものです。ここに到達するために、人は一般社会の中で色々なことを経験しながら、ここまで歩んでくるのです。ここからまた外れていく人もいます。自分の気持ちに正直というよりも、憧れのように他人に影響されてこの道に踏み出したものの、まだ十分に嘘も欲望も処理しきれていない人は、もう一回社会に戻らないといけないことにもなるわけです。それについてはどう思う?

カトケン:
社会に戻らないといけない・・・?

いさどん:
一般社会では会社のニーズに応えていれば、いい加減でも認めてくれるわけです。しかし、いい加減というのは本来それが社会の中の色々なトラブルの種になるのだから、賢明なものはそこを綺麗に処理していきたいものです。ところが、人によってはトラブルの種が魅力的に観えるわけです。タバコを吸うことでもパチンコをやることでも、低いレベルの恋愛をすることでも、意識の段階によっては魅力的に観えるものです。この道はそこのところを超えた学びの最終ステージみたいなものです。つまり、自分というものを超えて、世のため人のために生きていこうとする道だからです。

そうすると、その生き方を24歳で歩んでいこうとする時に、あなたは今までずっと真面目にきたから、不真面目をやらないで悔いがないかどうか?後から、「やっぱりもう一回不真面目をやりたい」とやり直すようなことはないかということ。それについてはどう思う?

カトケン:
不真面目というのはタバコとかパチンコとかそういうことですか?

いさどん:
それは何でもいい。それは人によっては真面目なことにもなること。例えば真面目にニコチン中毒になってタバコを吸いたいということもあるのです。でも、不真面目を全くしないで、ストレートに大事を歩む人がいてもいいわけです。それを確認しているのです。確認といっても、僕が今あなたの採用試験をやっているわけではありません。あなたが自分に問うてどうなのかということです。本当はあなた自身で知ることが出来ればいいのだけれど、「自分のことを知りたい」ということで今日の面談があるから聞いているのです。本来は、あなたが自分の中で自分に問えばいいことです。ところが、あなたにそれが出来ないということから、僕が代わりに親との関係を分析しながら聞いているのです。

あなたは親からのプレッシャーを受けながら、それでも心が歪まないで真っ直ぐ生きてきた。それで、そのまま最終ステージのような生き方にたどり着いた。それを今、「自分の道だ」と言っているあなたが、「本当にそれでいいのか?悔いはないのか?」と自分自身に問うてみるということです。ひょっとして先に行った時に、「恋に溺れてしまったから、ちょっとこの道を外れます」というようなことがあるかもしれない。それはそれとして、今自分の心を観てみてそういう気持ちがあるかないか?

カトケン:
自分の心の中に「農業高校の先生になりたい」という気持ちがあります。

いさどん:
それは前から言っていたよね。

カトケン:
それで自然農法センターで勉強していたのですが、頭に知識を詰め込むのではなく、心を磨いていった方が気持ちいいし楽しいなと思ったのです。心を磨いた後に勉強して農業の先生になって、心を伝えていきたいなという想いがあります。

いさどん:
公立でも私立でもいいけれど、農業高校の先生というのは一般の人です。そうすると、心を磨くことと農業高校の先生になるということは、あまり一致しているわけではないのです。心を磨かなくても農業高校の先生になれるわけです。農業高校の先生は文部科学省がつくったカリキュラムにのっとって教えることだから、そうすると今まであなたが歩んできた農業の現場とはちょっと反するかもしれない。コスト面を考えるような国の農業政策に合わせた農業を教えることになります。そういうことは妥協していくつもり?

カトケン:
以前に講師をしていた時に、「農薬や化学肥料を使った農業は自分が教えたいものではないな」と矛盾を感じていました。

いさどん:
確か1年前ここに来た時にみんなとその話をして、「道は農業高校の先生だけではないね」という話になったと思うんだよね。昨日の大人会議であなたが心のシェアを出した時に、こうちゃんが「昨年も同じことを言っていたよね」と同じ話です。ということは、昨年のみんなからのアドバイスが全然生きていないことになる。農業高校の先生になるということは、今のところ、ウエートは99%一般の農家、つまり国の政策の受け皿になる農業を伝える先生ということです。これから将来のことはわからないけれど。

例えばこれから世の中が急激に変わっていくと、有機農業や新しい代替農業が必要になってきます。その時にあなたがそういった技術を身につけていて、農業高校の先生の免許を持っていてそれを売り込めば、そういうノウハウを持っている先生はなかなかいないのだから、これは非常に評価されることになると思います。ただ、有機農業や代替農業を教えられる先生が、職員室で心の話は出来ないということはあると思います。

さらに展開していくと、ここのメンバーでありながら、外に働きに行って農業高校の先生をやるということはあり得るかもしれない。そうすると、ここで心を磨きながら学校で教えることができ、色々なことが満たされる。今考えられることをいくつか展開すると、そういうことが挙げられます。

さらに、農業の先生という意味では、高校じゃなくても今たっちゃんがやっているようにここで伝えることもできる。これからこういう農業はすごく重要だから、それを伝えられる技術者が沢山必要になってくる。だから、現場でマスターしたものをここでも伝えていくことが出来るし、こういったエコビレッジの動きの場でこういったことを伝える役割を私たちが担っていく可能性もあるのです。そうすると、敢えて教員という立場を取らなくても、農業を教えるという道は開かれるのです。そして、心を磨き、それを伝える場がある。

あなたがここで何をしたらいいのかというのは、ひとつは目標を持ってそれに向かって進んでいくということ。そして、もうひとつはここのみんなのように、「自分が生きていることは私の意志にあらず」という道。

カトケン:
私の意志にあらず・・・?

いさどん:
「自分が生きていることは私の意志にあらず。私の目的はあなたにあります。世のため人のためなのだから、与えられたことは何でもします」という精神になれば、目の前にあることをやっていくと自然と自分の活かし所にはまっていく。でも、「結果はいただきます」ということ。この世界の仕組みからしたら、私たちは自分の意志でこの世界に生きているのではなく、この世界があり仕組みがあってその中に組み込まれて私たちは生かされているわけだから、そちら側の意志で生きることが一番目的に沿うわけです。それが私たち流に言う、「神様の意志で生きる」ということです。人間には自由が与えられているから、一般の人はそれをやりません。それで右往左往したり、問題事を引き起こすのです。

その一方、自然はすべてスムーズで事が成っています。それはすべてが自然の仕組みの中で生かされていて、必要なところにはまっているからです。ところが、人間はそこで自分で何とかしようという我があるものだから、自然の仕組みから外れた分だけトラブルをもらうのです。それは病気でも人間関係でも何でもそうです。人生の中で自分が予定を立てたことがならないということでもそうです。

それでまたあなたに問うのだけれど、自分の心を観て、あなたはどういう歩み方を望むのか?つまり、自分でああだこうだと考えて目標を設定するのであれば、さっきいくつか挙げた選択肢から自分で選ぶこともできる。これが人生計画というもので、誰でもそうして生きてきたわけだ。

しかし、もうひとつの道は神様の意志に任せて、「私を使ってください。私の存在はあなたの意志にあります。あなたの意志に沿うことがこの世界に生み出された目的にふさわしいのですから、あなたの意志でお使いください」という道を歩むのかどうか。

カトケン:
自分でやろうという気持ちがあると、エネルギーを浪費してしまうと思います。

いさどん:
それは当然そうです。だから、人間というのはこういう修業の場をもらって学んでいくわけだから、より優れた道を歩むということが大切なのです。あなたが心の道を大切にしたいと思うのであれば、そちらを選べばいい。24歳でもそろそろそういう人がいてもいいと僕は思っています。僕には30歳からこういう心の道が始まり、そのあとすごくガタガタしたし、結果40歳まで一般社会で生きてきた。でも、次の時代の人は24歳からこういう道を始めてもいいと思うし、例えばここで生まれてくる子どもたちは今からこの道を生きているわけだ。あなたは時々心が不安定になったりするけれど、そういうことが定まらないから不安定になるとも言える。そうすると、道がしっかりと定まったら、もう揺るがないでそこを歩んでいくことが出来る。

僕は情報として提示するだけのことで、選ぶのはあなたです。神様とあなたの契約です。ここで言う神様というのは、自分が生きていることの証として、生きている目的は何なのかということを探究する結果、この世界にある法則のこと。現象としての事実の連鎖の中にある法則性の中に見出される意志。これがこれからの時代の大いなるものとの接点の仕方であり、ここでは何も人間の欲の心を揺さぶるような宗教性はないわけだ。私たちはこの世界の一物であり、この世界は宇宙の法則の中にあって、そこに法則がある限り意志があるのだから、その意志のもとに私たちも存在しているということです。私たちは非創造物であって、そこには私たちを生み出し生かしているものの意志が働いているのです。

カトケン:
普段作業をしていても、そういうふうに感じでいます。

いさどん:
それならば先ほどの話に戻るけれど、親の影響を受けてきたこともとりあえず事実だし、その呪縛みたいなところから自立した意志で新しい道を歩むということにしたらどうですか?「木の花という環境にいることで素晴らしい人生をいただいた」なんてせこいことを言っていないで、この場所を創り上げる原動力になればいい。私たちは血縁の親の子どもというよりも、大地の子であり、光の子どもであり、すべての生命が家族であるのです。過去世があり来世があるとしたら、そのたびに親も子ももらうのだから、今たまたまこの親をもらっているだけのことです。

そういったことを悟り、揺るぎない意志のもとで生きていけば、何の目的で生きているのかということを認識し、非常に充実した人生を生きることになるのです。人間は色々な出来事をもらい垢の部分をそぎ落としながら綺麗になっていく。生きるということはそういった作業をしているわけです。そうすると、垢があるうちはパチンコをやりたいとか恋愛をしてみたいとか言って世間に戻っていくのです。でも、それはやってみた結果痛みや苦しみをもらいながら、そこから学んでいくことになるのです。その段階ではこういった生活を見て、「あんなに窮屈なことはやれない」と思うのだけれど、さらに次の段階に進むと「あの時は馬鹿な時代を過ごしていた。あんなことで喜びを感じていたのか」ということにもなるのです。それはその人の魂の位置によって求めるものが変わっていくということです。

そうすると、あなたは過去に色々なことを学んできた結果、この年齢ですでにそういった心を持っているのです。僕の不真面目からしたら、あなたはすごく真面目です。それだったら、とことんその真面目を極めたらいいと思います。多少柔軟性はあってもいいかもしれないけれど、それはその時その時の余裕、遊びのようなものだから。もしこのまま進むのであれば、真っ直ぐ行けばいい。その時にはこの道を歩もうとするさらなる原動力、気づきが湧いてこないといけない。しかし、今のあなたにはなかなか気づきが生まれてこない。生まれてきたとしても他人に聞いてみては「ああなんだろうか、こうなんだろうか?」と考えをまわし、昨年話し合ったようなことでも今また出てくるということは、あまり進歩していないということです。

だから、心磨きが大切なのです。あなたは自分というものに執着が強い。「自分がどうするのか?」という心が強いのです。悟りにも色々な段階があるけれど、あなたにも「私のいのち、私の人生はあなたの意志です」という心が出来たら、もう自分がどうしたい、こうしたいという心はなくなってくる。逆に言うと、「私にも意志があります。その意志はあなたの示される意志。そして、それは毎日起きてくる現象、湧いて出てくる気づきに現れてくるのです。それは特定した自分にとって有利かどうかというところにあるのではありません。」そういう心にならないと、そのままの真っ直ぐな道にふさわしい気づきが湧いてきません。磨き切るということの大切さやこの道を生き切ろうとする心はその奥にあるものだから。汚れや垢は表面にあるからすぐに出てくる。しかし、大元にある絶対真理は一番奥にあるから、まわりにある垢や我に捉われていると、その一番大事が観えてこない。だから、自分が生み出された本当の目的のもとに生きていきたいと思うのであれば、まずはその我を取っていかないといけない。それが心を磨くということです。その大切に気づいた人がここでこういった暮らしをしているのです。それがあなたの質問にあった、「心を磨くとはどういうことか」ということの答えです。ひとりひとりが尊いのだから、あなたの中から気づきが湧き出てくるように心を磨いていかないといけない。それが心磨きです。あなたの中にもブッダやイエスのような精神があるということです。

さらに、「家族関係について知りたい」ということであなたの血縁の家族について分析してきたけれど、では家族とは一体何なのかということです。血縁を超えた家族という捉え方が木の花にはあります。この捉え方は宇宙生命としての捉え方です。地球生命というと一般的に私たちが言う自然のことだけれど、もっと大きく捉えれば宇宙生命と捉えることができます。宇宙生命というのは宇宙に存在するすべてのいのちのことです。これを言いかえると、宇宙に生きている神ということです。過去生にご先祖様も子孫もあって、来世にもご先祖様や子孫がいるとしたら、今の特定の家族に執着する必要があるのかということになります。

カトケン:
いや、ないです。

いさどん:
万人が家族であって、すべての人の幸せを願うことが世のため人のためという生き方になるのです。あなたがそういう視点を持つかどうか。心を磨くということはそこに到達することが目的なのです。そうすると、あなたの最初の質問に戻って、あなたは「自分のことが知りたい」と思った。その問いを探究してきた結果、私たちは宇宙生命の一部であり神の一部分となります。そしてそのことをより明確にして、揺るぎのない自分でありたい。人間として生まれてきたということは汚れがあるわけです。だから、「心を磨く」ことが必要で汚れを取り去っていくと、この世界すべてが一体の生命であり、宇宙のいのち、神の「家族」であるということです。これがあなたが聞きたかった「自分のこと」「心を磨くこと」「家族関係のこと」についての答えです。

この道は狭い道です。高くなれば高くなるほど、富士登山でも道が狭くなっていくのです。下に行けば登り口はいくつもあるけれど、上に行ったら頂上はひとつしかない。それが本当の目的なのです。すべての生命の目的です。そこを今、あなたは目指すかどうかです。

カトケン:
僕は悔いなく生きたいので目指したいです。

いさどん:
「悔いなく生きたいから」ということで、好き勝手に生きてみてもう一度戻ってきてもいいんだよ。そういう道もある。しかし、逆に言えばそういう無駄のない道をとことん歩み続けたいという人がいてもいいわけです。僕もこの道に出会ったばかりの頃は、自分の中にずるい性格や欲深い人がいて、それを目指す自分が苦しんだ。しかし、消去法をやっていくと幾つもの人生を生きられない。人生は一本道であることがわかる。「あっ、そうか!」と。今ある心は順番に消していくものであって、それを持っていくものではないと気づいてくる。だから、ウッとしながら自分を消してきた。その時はそのしようもない自分が大切なように思える。そちらの方が誘惑的だし、心をそそられる。それをあえて消してきたけれど、考えてみたら最後に残るのはこの心の道しかないことに気づく。この道は死んでも消せない道なのです。宇宙真理、探究の道だから。それである時気がついた。「もうつまらない考えは捨てて、これだけ、一本で行こう」と思った。そして、24歳にしてそれに気づく人がいてもいい。それはあなたの意志です。ここで「どうする?」と僕が質問すると、かえっておかしいでしょう。あなたの人生ではないみたいだから。だから、あなたが自分で考えてみんなに宣言するなり、自分の中で決意するなり、それは自分で決めればいい。神様とあなたの契約だから。ただ、ぐだぐだして昨年と今年で同じことを言っているようなことは、そろそろ卒業したいものだね。

それに対して親が何と言うかは親の考えだけれど、あなたの親は生活力もあるのだからあなたの道を歩ませてくれると思う。ひとりひとりは自分の魂の位置でものを判断して行動しているものです。しかし、どんな魂も最終的には行き着くところは一緒です。そうであるならば、必ずいつかは、「うちの息子の道はこれだったのか」と理解する時が来ます。今、木の花のことを理解できる人が世の中にどれだけいるのだろうと思ってみると、1000人に一人はいないと思う。しかし、志が高ければ、まわりから理解されなくても歩んでいくことが出来る。それは自分の価値です。世の中の先頭を歩んでいる道だからこそ、まわりの評価を一番に求めるようなことでは、このような道は行けないのです。だから、志を高く持たないと歩めないのです。

あとは自分で考えて、こうやって面談をしたのだから、大人会議で皆に報告できるのであれば発表してもらえればいいと思う。こういう話を聞きましたが、今後の課題として取っておきますと報告してもいいのです。それはあなたの人生だから。しかし、ぐだぐだ先延ばしするのはエネルギーがもったいないからやめよう。

カトケン:
わかりました。ありがとうございました。

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その数日後、カトケンは大人会議で「いさどんとの面談を終えて決意したこと」という心のシェアを発表しました。

カトケン:
いさどんとの面談を終えて、自分なりに決意したことがあります。今までは農業研修生としてここで生活していましたが、7月から仮メンバーとしてやっていこうと思います。なぜ7月かというと・・・。

たっちゃん:
はい!答えは僕の誕生日があるからです(一同、笑)。

カトケン:
(苦笑いしながら)7月5、6日に地元のお祭りに参加したいと思っています。今までお世話になった人たちへの感謝の気持ちを表現できるよう、悔いのないようにやってきたいです。それから、6月下旬に足の不自由な知り合いの方の草刈りを手伝いに行こうと思っています。

なぜ仮メンバーになろうと思ったかというと、ずっとここの生き方に共感していて、僕の生きる道だと思ったからです。ここでこの道を生きていきたい!昨年の数ヶ月の滞在からかなりの時間が経ったのに、なかなか自分の気持ちに踏ん切りがつきませんでした。僕が進路を決断する時にいつも思い浮かぶのは両親のことです。いつも彼らの顔色をうかがって生きてきました。でも、今回は自分で決断しました。
その決断を両親に伝えたところ、母親は賛成してくれました。父親は、「新潟は過疎化しているのだから、木の花で学んだことを新潟で広めてもらいたい」と言いました。それを聞いて少し動揺しましたが、「こうでなくてはいけない!」という親の顔が浮かんだ時に、光輝くいさどんの姿が見え(一同、笑)、父親の顔がかすんで見えました。その時に「やっぱり僕はこの道で行こう!」と思いました。

ひろっち:
僕も親とのことで同じような経験をしています。その時に考えたのは、神様はどういう決断を喜ばれるのかということ。ここで世のため人のために生きることこそ喜ばれることだと思って、この道を選びました。それで親子関係が切れるわけではないし、ここでしっかりやっていけばいいと思います。

あっちゃん:
私も3年前、メンバーになるかどうかの決断ができずにいました。その時じゅんじーに「ファーストインスピレーション!最初に感じたことを真と思って進んでいったらいい」と言われたことを思い出し、メンバーになる決意をしました。カトケンの決断は素晴らしいと思います。

ちなっぴー:
カトケンが心を磨いていけば、それが親孝行になり先祖供養になると思います。

いさどん:
カトケンの両親は賢明な考えを持っているので、最終的にはカトケンの決断に委ねるだろうと思います。地球人として、地球のためにみんなで生きていけたらと僕は思います。

なかのん:
仮メンバーには今日からでもなれるんじゃないかな?みんなはどう思う?

いさどん:
僕もそう思ったけれど、カトケンにも思うところがあるってことだし・・・。

カトケン:
では、今日から仮メンバーになってもいいでしょうか?(一同、拍手)

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こうして、木の花大人最年少メンバーは28歳のりょうちんから、24歳のカトケンにバトンタッチされました。

それから2カ月半が過ぎ、田植えの時期が訪れました。自らの希望で田んぼ隊チームに入り、木の花での初めての田植えを経験しているカトケンは、いつも嬉しそうに作業に出掛けています。「今、悔いのない生き方をしています。みんなと一緒に。では、行ってきます!」

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宇宙の仕組み

3月21日春分の日、いさどんとみちよちゃんがヤマギシの春日山に向かう車中にて話した内容をブログにまとめました。

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み:宇宙的に観た山岸巳代蔵さんについて、いさどんに聞いてみました。

い:昨晩は、今朝早く起きることを意識して、早めに床に着いたが、眠りにつくのに時間が掛かった。その時に、山岸さんの気配を感じた。最近、特講の時に始めた瞑想をやっている。特講のときに、咳が出たので特別室(一人部屋)にいて毎晩寝る前にやっていた。それは、太陽系神、地球神、それから地球の聖者達、宗教の教祖達などの名前を順番に挙げながら、そういった御魂がこれから力を合わせて地球人類を導いていくことを意識して行っている。この世界に存在する全てのものは意識を持っている。
銀河も太陽系も意志を持っている。その意志が我々を創造しているからこそ我々も意志を持っている。その意志に通じたもの達は、銀河や太陽系や地球の運行に関わっている。それがあるということに確信を持って呼びかけると、その呼びかけは、我々が対話するのと同じように通じている。しかし、信じない人にはそんなことは不可能である。すなわち、この世界は、その人の思いが、どのレベルかによって、それに相応しい世界に生きることになる。その意識レベルによっては、物理的世界の背景にある我々が見ることの出来ない世界に通じることができる。
今、そういった世界に通じる瞑想をしている。昨晩、1時半過ぎに寝ようとしたが、全く眠れなかった。その時に、今日の日の意味を思っていた。やはり山岸さんのことを思ったし、そこに彼がいるのを感じた。ということは、僕が考えていることを彼も考えていたから、互いの周波数が合っていたといこと。朝、そろそろ時間かなと思って目が覚めた。外はまだ暗い様子。もうそろそろ起きる時間かなと思っていた。7時に起きる予定だったけど、一向に誰も起こしに来ないし、目覚まし時計も鳴らないので、そのまま考え事をしていた。今何時だろう?と思って時計を見たら、5時45分だった。まだ時間があると思って寝ようとしたが、目が冴えて眠れない。その時に、やっぱり山岸さんの存在を感じた。ということは、僕の今持っている意識レベルに彼もいるということがわかる。そして色々な彼の残した書物、「実践の書」など資料を見ていると、彼には癖があって個性的である。人間としては、癖があるからわかりづらい人。そのわかりづらさの原因は、色々なところで、話の中にフェイントが掛かっているということ。フェイントというのは、あえて話をわかりづらくしているということである。そのわからないところで、あえて人々が考えていくように表現が打ち出されている。それで、ヤマギシ流世界を表現しようとしている。しかし、そういうわかりづらい表現をしながら、ポイント毎に目的の意思がしっかりと示されている。特に戦後間のない時代だったから、人々は争いに懲り懲りしていた。だから戦争のない世界、「仲良し社会」、それから物理的貧しさから「豊かになる」、そういったことを打ち出しながら、もう一方では、それを否定して、精神性の重要さを最後に置いている。常人ではわかりにくい巧みな表現をしてヤマギシズムの表現にしている。これは、普通の人間では中々やれないこと。単なる山岸巳代蔵という、情欲が深く、駆け引きのある人ではやり切れない。こういう人が普通に人生を生きたら、ある程度の財は成すだろうが、それを大盤振る舞いしたりして、そうしたものを無にしてしまったり、親分肌で波の大きい人生になる。そうしたことを考えると、ある意味超人的な人である。やはり宇宙人。少なくとも、僕の意識の周波数にいる存在。僕は今、宇宙を意識して生きている。それは、地球の外側に地球をつかさどる神界(神々の世界)というところがある。そこに所属する魂意識があって、それが地上に降りて、地球の意志として、人間の本来あるべき境地を語る位置、つまりインドのグル(覚者)の意識、そして今、日本で普通の人間として人々に語っている、これは宗教で言えば教祖的立場、それから、普通の戸籍で生まれてきた自分、そういう立場をいくつも持っている。山岸さんは、そういうことと同じような立場の人ということ。だから、ここのところではこういう人、ここではこういう人という風に立場、立場で色々な表現をする人であった。
山岸さんが書いたものを読んでみると、そこにヤマギシズムの中での夫婦について語っているところがある。夫婦というものを1組にして考えていくというものである。しかし、我々は既に夫婦というものを1組ではなく、一人の人間として独立して考えて行く考え方になっている。それは時代背景からして、次の時代の考え方。それは、夫婦という単位を否定していることではなく、既に夫婦単位で取り組む段階を超えているということである。これまでヤマギシでは、夫婦が1組で取り組むことでやってきたが、その中には相性とか縁を無視して夫婦にしてしまうという「結婚調整機関」と言う組織が山岸さんの発案として出されている。これ自体は山岸さんの発想なのだろうが、今ではそれが、色々な乱れや矛盾を生んできている。そういう時代に合わないものが、丁度彼が亡くなって50年。賞味期限が切れようとしている。本当にこれは賞味期限だと思う。だから、彼は僕のところに来て、僕の手を握って、バトンタッチしたことは、色々なことを調べていくと本当にそうだと思う。それで、今の僕の立場があるのだと思う。これからそれがどうなっていくかと言うことに対して、昨晩、彼と話をした。
仮に、ヤマギシを僕に託すとして、「一体全体、この理念にほれ込んで、踏み込んだのは良いが、理念だけに没頭して個々の人間を磨くことを忘れてしまっている人々をどうやって、導けと言うのか?あなたはどう考えるのか?」と問いかけをした。
そうしたら、「人間の世界は、こちらの世界(彼が今いる世界)に比べると時間が掛かりますが、流れはできておりますので、しばらくこのままよろしく」というようなことを言われた。
まぁ、そういうことなのだろうな。大本教の出口王仁三郎聖師にそういう話をしても同じことを言う。でも考えてみたら確実に時代はそちらの方に進んでいる。だから常にスタンスとしては、目の前に起きることをやっていく。一切戦略を持たない立場で、今日もいる。先にどうなるだろうと考えたら、私心が入ってしまう。

み:話を聞いていていくつか質問がある。今のヤマギシは日本の縮図的なところがあると思う。戦略的で対立があり、鬱の人がいて、自殺者がいて、と言う風に、日本社会が凝縮されている感じがある。いさどんは、今年からおやじの館を正式にオープンして自殺者を減らそうという話をしていたでしょう?でも、最近来るケアの人たちは、ヤマギシの人たちが多くなってきたよね。そこを手始めに、日本全体の問題も解決されていくのかな?それは、ヤマギシから来るケアの人たちへの対応を通して出来た実績を元に、日本全体の問題にも、ノウハウが応用されるような印象を受けたのだけど、その辺はどう思う?

い:その質問に対しては、わからないから答えない。それは、この国の未来が、そして世界がどうなっていくかは、僕の思考や興味を超えたものだからだけど、僕が5月3日の葬式(生前葬)後に一番大切にしていくことは、自殺者をなくす活動をすることは事実。これは、そういう風に決意していることだし、それがこの国にとって最も大切なことであって、最も難しい問題。昨秋にヤマギシに出会う前は、対象は一般の人だった。そういう人たちが口コミで来るのだと思っていた。そうしたら、ヤマギシとの出会いがあって、今、こういう話が進んでいる。ここで事実として挙げられることがいくつかある。ヤマギシは日本社会の縮図であり、そして日本という国は調和の高い理想の国だが、現実には全くそこが生かされておらず、精神性より経済的な発展を優先させてきた国であり、本当にヤマギシは、そのミニ日本。そこに凝縮して自殺者やうつ病が出ていると言うことである。そして、それが改善されていくと、そこに実績ができる。ヤマギシの中の実績が、今度はヤマギシの中でそういった改善のケアが出来るようになる。そのためのノウハウは、全てヤマギシに伝えられる。あの人たちのように心一つで団結できる人たちは、それこそ色々な分野の人たちがいるから、それをマスターしたら、将来には統合医療の見本となる可能性がある。それは、新たなヤマギシの社会貢献に繋がることになる。そうすると、今、ヤマギシは世の中から偏見を受けている状態にあるが、それは世の中にもう一度認められるチャンスでもある。それがどこから来たかというと、木の花であり、僕がきっかけでもある。そうすると、我々の取り組みも、そこを通じて広がっていくことを考えると、昨秋、ヤマギシとの出会う前に考えていたことは、ずれていることではなく、僕が予測していなかっただけのことで、ヤマギシを通しても、それが広まっていくことになる。ばらばらで取り組むよりも、ヤマギシがこれからそれに取り組んでいくと、集中的に色々な実験もできる。だから僕は想像していなかったことだが、これは与えられた道かと思っている。そうすると、今回の春日山行きの目的は、柿谷さんとの話だが、その後に、現在預かっているヤマギシからのケアの人たちの話もあるから、春美さんやよりどんたちと話をする。その中で、この話は出る。そしてこれから、そちらの方が大切な取り組みになって進んでいくだろう。しかし、これは見通しであり、ヤマギシの人たちの心にかかっていることだから結果は常に決めない。

み:ヤマギシのピンチをチャンスにという感じがする。

い:どんなことでも、全て活かすつもりになれば活かせる。それを問題ごととして決め付けてしまえば、問題ごとで終わってしまう。しかし問題ごとは確実に活かすためにある、それを活かさない限りは目の前にあり続けることになる。

み:今、ヤマギシは結構畜産系の仕事が多いでしょう?やはり世界的な動きや環境のことを考えていくと、そうした畜産系の仕事は環境に負荷が大きいじゃない。

い:環境に負荷が大きいことも勿論だけど、畜産というのは、経済ベースで捉えると農業経済ではわかりやすいが、エネルギー的にすごく非効率である。そして何より人間の心を食としてそそる。人間の心をそそるということは、心を躁的にしていく。それは、収めしずめるのではなく、激しく活性する効果がある。経済効果を目的の人たちにとっては、魅力的なものである。これからの時代を考えると、そのところがどうかということになる。畜産自体が経済効果が高いから進められるけど、それ自体が地球環境や人間の精神性にとっては良くないということで、見直していく必要があるのだが、そのことにいつメスを入れる決断をするかということについてだが、それは霊的なことにも深く関連する。現在、木の花では光の瞑想をしている。我々人間が、どれほどたくさんの無念の魂を地球上で発生させているかということを理解する必要がある。その魂は確実に地球の霊的な環境を汚染している。それを浄化するとしたら、まずは発生源を断たなければならない。それこそイヌイットなどネイティブな人たちが生存のために動物達の命を食べていくことは、全く問題はない。それは命が伝播されているだけで、自然界のシマウマとライオンの関係と同じである。ところが、現在の人類の営みの中で、畜産の現場で起きている命の扱い方を観たときに、膨大な数の無念の魂を生み出している。それは見えないところに、大きな影響を与えている。ヤマギシが特にこの社会の縮図として負の部分が多いのは、動物をそういう形で屠殺していることが大きな原因でもある。いつここにメスを入れるかということは大きなことであり、勇気のいることである。そのことは、何よりも重要だが、結局はハードルの低いところから取り組んでいくから、重要なことは結局最後になる。本当は気付いたら、重要なところからサッと取りかかると他はあっという間に切り替わっていくのだが、一般的には下から順番にやっていくわけで、どちらになるかは、結局は上(神界)の意向であり、そこでもヤマギシの人たちの心意気にかかっているのだから、僕は知らない。今僕に必要とされていることをやっていきながら、僕自身も結果をもらいながらやっていくということになる。

み:ふと思ったのは、どこかの小規模な実顕地の1つを、実験的に健康上の観点からベジタリアンにしてみて、例えば、成人病(糖尿病や精神疾患)の人たちがどのように改善されるかを実験データとしてきちんと取って、それを活かしていくと、霊的なという話がヤマギシの人たちにわかりにくくても、健康を改善していくという切り口であれば、結果を見ながら、他の実顕地でもそれを取り入れていくことは出来るのではないかな。

い:霊的なというとわかりにくいが、人間の心も霊的なこと。そうすると人間が対立的、疑心暗鬼、悩む、愚痴る、そういうことも全て霊的な作用なわけで、肉食や屠殺による影響でそういうことも生み出している。そこの重要さをまず知るということ。いつ頃それに気付き出すかと言うことだが・・・。
どこかの実顕地でそういった取り組みをすると言うのは、すごく良い提案だよ。本来、ヤマギシ自体が試験場だから、どこか手ごろな実顕地でそういう取り組みをして、モデル化する。それは大いにやるべきことで、今後、何かの形で提案をしていくと良いと思う。ヤマギシと昨年出会ってから、いくつかの問題点が見つかった。例えば、特講の内容にしても、青本すら、日本語だけど、もう古くてなじめない日本語になっている。もう50年たっているから賞味期限が来ている。これからの時代に合うように直す必要がある。そうすると当然研鑽学校の内容も変わってくる。そういったことをやろうという一部の人の機運もあるが、さて、いつ頃これをやりだすか?というところである。もうやらなければならないことはわかっている。だけど、やらなければいけないことはわかっているけど、ヤマギシの人々の中に「けど・でもウィルス」が蔓延していて進まない。全人幸福という大儀に向けた、零位に立つ心の覚悟ができていない人が多い。
このことは霊的には、山岸さんに伝えている。「あなたの責任上の問題として、いつそれがなるのか?」と伝えると、「我々のところ(神界)では、それはすでに成っていることですが、人間の世界では時間が掛かりますから。」と返ってきた。
改革ということをもし必要とするならば、もう取り掛かっていかなければならない。これを我々から投げかけるという点では、今の話はすごく良いね。健康とか、環境とか、新しいモデルとかをいくつかのテーマとして、それを実際に顕現する、つまり実顕地(実験地)として一つ指定してやろうという提案は大いにしていくべき。

み:特講に行く前に春美ちゃんからもメールが来たときに、「ヤマギシも食生活を見直していきたいから、相談に乗ってね。」って書いてあった。わたしはそういうことに興味があるから、いくらでもそういう話をしましょうと言っていたが、その後進んでいない。今日、また春美ちゃんとも会えるから、そういう話をまた出してみようかな?

い:春美さんにはそういう意向はあるみたいだが、中々きっかけがないと難しい。あの人たちは、きっかけがあればやると思う。そうすると任しておくといつまでたってもやらない可能性もある。

み:じゃあ、きっかけは木の花が作ってあげるのがいいのかな?

い:そこらあたりが、色々なんだよね。きっかけを木の花が作りすぎると、ヤマギシの人たちって、プライドが高くてへそ曲りなところもあって、自負心が強いから、「俺達には高い理想があるのに、何でよそからそんなものをもらわなければならないんだ!」と言う風になる。だからやはり、自分たちで研鑽して立ち上げたと言うことなら、納得する。今の中央本庁の一部の人たちが動かしていることに対してもみんなで不満を言っている。そういう意味では、全体に投げかけてどうするかを、みんなで出し合って研鑽する。我々はきっかけの提案はするけど、取りまとめはしない。それとも本庁ではなく、新しいプロジェクトチームを立ち上げて、そこが投げかけるのか。何しろヤマギシの内部から投げかけることが大切だと思う。そして、そのきっかけは木の花でもいいと思う。

み:前から聞いてみようと思っていたんだけど、いさどんは金星から来たのでしょう?そうした宇宙的な目で見たときに、山岸さんとかはどこから来たのかな?って思うのだけど。

い:僕の感覚では、山岸さんは金星から来ているのだろうと思う。だから周波数が僕と合う。これは確かではないけど、ほぼ間違いない。

み:それはいさどんの肉体が無くなって、宇宙に戻ったときに同じ星から来たってわかるの?

い:肉体が無くならなくても、これからこの流れが進んでいけばいずれ分かると思うよ。でも、そのことについては、肉体が無くなったときに、わからなくたっていいんじゃない?僕は今、自分の中で、とりあえず金星のことは大きな意味を持っていないと思っている。僕は、銀河全体のことを今は考えているから、先は銀河の旅に行きたいと思っているくらいだから。とりあえず太陽系のことは、今までの自分のグラウンドだったからね。何となく感じるのは、今回こうした役割をもらってここに来たけれど、役割を果たすことによってこの太陽系というところから自分が解き放たれて、次のフロンティアに旅立つのだろうというイメージを持っている。それで、人々(地球人)にとっては、こういうことはとんでもない絵空事のように思うかもしれないけど、実はこれは真実なんだよ。人間の想念と言うのは、全てこの世界の現象の背景にあるものでしょう?人間があんぱんが欲しいと思えば、あんぱんを創り出すのだし、鬱的なネガティブスパイラルを持っていれば鬱が発生するのだし、全部そういう風に想いによってなっていることが理解できたら、今僕が語っていることは事実だよ。
ただ、肉体に縛られて、そこからしか物が観えないと理解できない。この間、僕は金星の精神性の完成度について話をしたことがある。そうしたら杉山開知君(地球暦の開発者)が来て、金星が太陽系の中で最もバランスの良い星、ということを彼が伝えに来た。そうやって真実は必ず証明されるわけだ。だから真っ直ぐぶれない想念をもって表現しきると、常に真実の上を歩んでいくことになる。

み:地球が未熟だから、今、色々な星から色々な魂が降りてきているの?

い:それがね、僕も一時そういう風に考えていたのだけど、この間の開知君のデータを見るとね、水・金・地・火は、硬い岩石で出来ている惑星だということだった。そして太陽は全く異質のものであり、太陽系全体をまとめつなぎとめる役割、太陽系そのもの。その次の木・土・天・海・冥はガスで出来ている星だと言っていた。そうすると、木・土・天・海・冥は水・金・地・火とは違う役割のものなんだよね。そこにも霊的世界がある。それは役割が違う霊的な世界だと思う。そして水・金・地・火は、地球人類のような霊的なものを持っている。その中で、水・火については、ぶれが大きい。特に水星のぶれが大きい。地球はそれに対して、どちらかというと金星に近くぶれが少ない。金星はみごとにぶれが無い星であるけれど、地球は微妙にぶれている。この人類のぶれを、ここの世界で見ていると、本当にわからん連中だなと思う。そして、ヤマギシをこの世界の縮図だとして見たときに、ヤマギシの人たちはいがみ合っているけれど、ちょっと大事を伝えるとすぐに気がつく。それと同じことを地球人に感じる。人間たちも戦争をやっているけど、痛い思いをすると気づくというレベルだと思う。この太陽の周りを回るぶれはほんのちょっとだけなので、意外とアホそうで、アホじゃないと思う。でも、これは太陽系の多様性なのだろうけど、水星とか火星のようにぶれてしまうと、これはもうどうしようもないじゃない。そうすると金星がひとつのモデルで、地球はそれに近い存在。その近い存在に、肉体と言う物質を持たせ、セットにすることによって何か実験しているわけだよね。だから、地球というのは、さっき話をしたヤマギシのどこかの実顕地において、問題点を改善するための実験場という意味合いもある。ヤマギシでいうならば、実顕地のようなもの。そういう風に捉えると面白いと思う。
今まで僕が思っていた印象の地球は、幼いという捉え方をしていたけど、意外と地球は幼いのではなくて、それは観えていないから幼いだけであって、観えたらたちどころに目覚める存在。そうすると、土星とか木星とかの外側の星は、地球のぶれに影響を与える存在。つまり、木星であれば木星の表現がある。土星自体も、それ自体が複数の霊的な魂のかたまりとしての特徴を持っている。例えば、人間の魂だったら、肉体の中に入れてやると一人の人格が出来あがる。そういう種類の魂の分類からすると、木星以降の魂の分類と言うのは魂のパーツのかたまりなのだろう。

み:パーツ?ちょっとわかりにくいんだけど?

い:一人の人間は、百八つの煩悩(カルマ)を持っていて、その組み合わせによってその人を表現している。そうするとその土星以降の惑星の霊的な表現は、百八つのなかのパーツ、つまり、愛とか怒りとかが部品のように個別のカルマとして分類されてあるのだろうと思う。わかる?

み:じゃあ、一つの人格的組み合わせになっていないということ?

い:一つの人格のように組み合わせになっていなくて、パーツごとにそこに存在している、いわば倉庫のようなもの。それが、惑星のラインが整ったりすると、太陽の刺激によって、そこから邪悪なものが地球に降り注いだりとか、愛が降り注いだりとか、人類が戦争を始めるとか、ヒットラーみたいなものを存在させるとか、そんな影響を与えているのだろう、そういう捉え方をするようになってきた。
だから水・金・地・火と木・土・天・海・冥はタイプが違うんだよ。

み:それぞれ今、地球に来ている魂は、目的が違うの?

い:地球に存在している魂のほとんどは、元々地球由来の魂で、太陽系の第三惑星を、現在の地球にするための地球化計画に基づいた目的が最初にあったはず。そうすると、地球のために生成された魂と、それからそれを指導するための役割の魂という分類はある。だから、元々、地球化計画のためにつくられた地球人類、肉体人間のレベルだけではなく、地球には霊的な状態で存在していて、外から刺激を与えて地球の運行を支えているものもあれば、まだ未熟なものとして迷っているものもいる。それが受け皿としての肉体に入って、肉体人間として地上にいるものであるから、人間には色々な魂の形態がある。

み:では、指導的な役割で来ている魂は、金星から来ているの?それとも他の銀河系の星からも来ているの?どれくらい広い範囲から来ているのかな?

い:指導的と言ってもタイプがある。現人神のように人間の肉体に入って、役割をする為に来ている魂は、金星からだけだよ。それ以外に、霊的なメッセージとして、他の星から、これは太陽系だけではなく、他の銀河からもチャネリングのような形で人類にメッセージを降ろしてきているものもある。だから、肉体人間として降りてきているのは、殆ど金星からだけだと思う。後は、太陽系の星々からパーツとして、いわば原発事故があったときに放射能が降って来るのと同じように、太陽の活動の結果として、他の惑星から霊的な作用が地球上に降ってきて、それが人間に影響を与えて、人間の世界の中の争いであったり、調和だったりという様々な作用をもたらしている。

み:他の星からのパーツを降らせる、降らせないという、その辺の采配は、やはり宇宙の意思?

い:大きな捉え方をすればそうだけど、厳密に言えば、それは太陽の意思だろう。だって、ここの世界は太陽系だもの。太陽(光)が元になって命が成り立つ世界だから、太陽が全ての惑星の心臓部、魂で言えば丹田だから、これは太陽の意思だよ。太陽系の範囲は、太陽の光が届いて、太陽のご意向によって成り立っているわけだから、これは当然のことでしょう。

み:じゃあ、わたしたちが神さまとか光をイメージするときには、太陽のイメージをすることが多いのだけど、それは、そういうことから来ているの?

い:そう。全ての元は太陽の意思だからね。

み:でも私が感じてきたのは、いさどんが言っているところの神というのは、それよりももっとずっと大きいものだと言う印象があるのだけど、そことの違いを話して欲しい。

い:太陽系をつかさどる神は、守備範囲としてあくまでも太陽系を任されている。その外の天の川銀河とか、さらにもっと大きな広大な世界をつかさどる神という存在も同然ある。それは、役割分担というか守備範囲のこと。今、僕が知っている天(あめ)の〇〇と言った「天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)」とか、「天之常立命(あめのとこたちのみこと)」とか、仏教的に言うと大日如来とかは、全て太陽系をつかさどるもの。一般的に地球人が認識していた宇宙は太陽系のこと。しかし近代に入って、人類がこの世界を物理的に解明していった結果、太陽系の外に天の川銀河があり、更にその外に広大な宇宙(銀河群)があることがわかってきただけのことで、我々が霊的な影響を受けて、人格を含めた生命の仕組みを一つの法則としていただいているのは、太陽系が基準になっている。これは、一つのいわゆるコミュニティで、大きなコミュニティが銀河だよね。だから銀河は、地球で例えると国家のようなものだ。国家の中にあるコミュニティが太陽系で、木の花やヤマギシは、地球上の国家に当たるものになる。更に外に、宇宙と言う世界があるわけでしょう?

み:ふと思ったのは、太陽系が小さなコミュニティだと言われると「へぇ、そうなんだ」と思う。今のこの立場から言うと、地球だけでも世界全体で70億人の人がいて、相当大きなコミュニティだなって思う。でも、今の話のスケールに思いを馳せると、次の社会を作るための代替的なエコビレッジのような活動をしている人たちの中で、世界で活動している人たちはほんの一握りで、一歩海外に出てそういう人たちと会おうと思うと、みんな繋がっていて友達。数えられるくらいしかいない。案外小さいんだなと思う。そうやって考えると、太陽系が小さなコミュニティだなというのは、すごくよくわかる。わたし達エコビレッジ関係者の人たちの背後にも見えない広大な世界があり、その存在の全てを含めてコミュニティなのだと思うと、何となくイメージ的にわかったような気がする。
い:エコビレッジの運動をしている人たちは、何故そういう考えを持ったかということ。背景として環境を無視している人間のあり方や、人が繋がらないで対立しているような不幸があるからでしょう?その不幸があるからこそ、そこでエコビレッジ運動をする意味がある。ところが、金星のような世界は、既に完成されているのだからそれは必要がない。そこで僕は問うた。「この世界はあなたの意志によって動いている世界です。そうすると、人間は全てあなたの子供と言えます。ところが人々の歴史を見ると、血で血を洗うような歴史が営まれてきました。子の出来の悪さは親の愚かしさ。弟子の出来の悪さは師匠の力量不足とも言います。あなたはもっと優れた魂を地上に降ろし、もっと完全なる世界を創ればよかったのに、なぜこのような未熟な人間を地上に降ろしたのですか」と。それに対して神様が答えられました。「私はこの世界において唯一ひとつのものである。それは完全なる世界と言える。それは私だけの世界である故に、孤独な世界でもある。私にも食べ物がある。それは喜びである。喜びが私の食べ物である。私一人の孤独な世界では、絆もなく愛のない孤独な世界である。それ故に、光には闇を、善意には悪意を、愛には孤独を、調和には対立など、それら私の存在と反するものを生み出し、私の存在の表現とした。それにより、私の世界にいのちが生まれ、悪意から善意へ、孤独から愛へ、対立から調和へといういのちの流れが生まれ、その流れの中からこの世界に喜びが生まれるようにしたのである」と。ということは、今の社会に問題を感じて活動をしている人たちが、現代社会のあり方に対して間違いだと言うこと自体が、神の意思に背いていると言うことでもあるということだよ。わざわざ問題を作って変化を持たせたのだから、それを「問題だ、もっと理想の世界にしろ」という主張は、ある意味、この世界の多様性や自然の流れに反することになるわけじゃない?でも、背いているわけではないのだよ。問題を作ったのは、それを改善していくことによって、そこに喜びを発生させると言うメカニズムが目的なのだから、問題を作ったままにしておくのが目的ではない。問題を作るのが目的だった、更にそれを改善していくのが目的だった。改善して、更にそこに喜びを発生させることが目的だった。ということを考えると、問題自体もそれをノーだと言って、反対して騒ぐ人たちも、やがてそれが改善されていくことも、全てプロセスの上にある。つまり全てが目的で、順調よく行っているというわけだよ。
そうすると、我々は何をやっているかと言うと、争っていることも、調和していることも全て神さまの意思なんだよ。道代ちゃんがさっき、「自分から見たら70億の人間とか、地球から見たらこのコミュニティが巨大だと思った」と言っていた。それは、道代の物理的スケールと魂的スケールを基準にするからそうなってしまうのだよ。ところが、そのスケールを一回ご破算にしてフリーにこの世界を観て行ったら、僕の話なんか簡単に理解できる。

み:いさどんの話を聞いていると、その通りだなって思えるんだけどな。

い:ところが道代のスケールに戻るとそんな風になるんだよ。そこが、人の心が自由自在になれるという証拠なんだよね。そしてもう一つ表現していた、この世界の善悪、例えば、今までのようなあり方、ヤマギシで言うと拡大路線とか、人類が物理的な進化の延長に、偏ったテクノロジーの発展を進めてきたことも含めて、それ自体が曲がり角に来ている。しかし、その前の貧しい時代からしたら、それは問題ではなく、産業革命というテクノロジーの夜明けを迎えることになった。それは200年~300年続いた後、今、次のステージに進もうとしている。そうすると、その背景により物事の基準が変わるから善や悪になるだけのことで、善悪などはこの世界にありはしない。だから人間がいつでもフリーに、今出会っているものは何なのかを理解していければ、たちどころに問題ごとは消えていく、そういった自由自在の世界にいるということになる。しかしそれが人々にわかってしまうと、痛みを味あわせては、そこを乗り越えることによって喜びを発生させ、神さま自身も喜んでいるという、神さまが人間に対してゲームを仕掛けていることがわかる。これってゲームの世界でしょう?バーチャル(仮想的)に作っては、勝った、負けたと言って喜んでは、またご破算にして、ゲームをやっているようなもの。それがわかってしまうと人間は、人間の側でなく、神の側(宇宙の仕組み)に立つことになる。

み:なるほどね。最近、自分のトピックとして、二元論で考える自分がいて、何でも「良い・悪い」で判断していることに改めて気付いて、そのどちらかに分けようとしている自分に気付いた。それにはどちらもそれぞれ長所・短所があって、本当は決め付けられない。しかし、今、いさどんが言ったように、その背景や状況によって「こうだ」と決め付けてしまいたがる。そこに何があるかと言うと、決め付けることでそこに「安定」みたいなものをもたらしたいと思っている自分がいる。でも、そこに安定を求めていくと、水が流れるような自然な動きが無くなって、澱んで腐っていく。だから、宇宙は本来そういう風に出来ていないということだよね。

い:宇宙は限りなく循環し、巡りめぐって変化する。それは、一定のものであって、特定のものが繰り返し回っているだけの世界。その循環して巡りながら変化することを「生命」と言うんだ。だから、我々もまさしくその中にいて、自然に帰ったり、自然から戻ってきたり。大きく捉えると、それ自体が自分なのであり、一つの生命であることがわかる。
(宇宙=生命=循環して巡りめぐって変化するもの、増えもせず減りもせず)

み:だとしたら、人間が安定したいと思うその心って何なんだろう?

い:それが、自分への執着なんだよ。だから二元論って言ったよね。この世界は究極の二元の世界なんだよ。つまり、陰と陽で出来ていて、すごく単純さ。そして我々は自分と言うものが無い限り、こういう解釈はできないわけだ。お釈迦様も「自分と宇宙」、「自分と世界」という対比でこの世界を観たんだよ。それは、自分が無い限り、この世界もないんだよ。究極は自分とこの世界が対等、すなわち「自分=宇宙」であって、自分が無くなれば宇宙もなくなるという世界。だから、自分という存在を持っているところに、それがあるわけで、自分を越えたものに、それは無いわけだ。

み:ということは、宇宙を観たいと思っていると、その安定を欲しいと思うのね?

い:いいや、自分を発生させると安定が欲しいと思うわけだよ。自分という基準があると、自分の心地良さや自分の納得とか、自分で測るということになるものだから、自分の範疇の中にこの世界を置いて、特定して観ようとするわけだ。それで、自分を消せば消すほど、自分のスケールは大きくなっていくわけだ。例えば、自らを「自分」という特定にする、「家族」という特定にする、組織だったら「木の花」という特定にする、それから、「日本」、「人類」、「地球」、「太陽系」という風に特定するでしょう?そして「銀河」「宇宙」、それを「全体」と特定したら、「自分」の存在は消えていくわけだよ。つまり、自分という認識は、いくらでも増えたり減ったりするわけだよ。その意識がどの位置にあるかによって、対するものに対して特定しようとする欲求が生まれてくるわけだよ。それだけのことだ。それを自分を持ちながら、かつ自らは宇宙全体という認識を持っていたら、これは、ある意味、究極の世界に踏み入っているよね。そういうものは最終的に、肉体を返上したときに宇宙にその魂が微細に遍満して、宇宙そのものになるのだから、そうなったときには、特定する人間とかには囚われないわけじゃない。それが、悟りであったり神との合一であったりする。
そうすると地球を掌る神がいるとしたら、そのレベルの神とは、地球に囚われているということになる。だから、どこに意識のレベルを置くかということで、道代ちゃんが、一人の人間としての「道代ちゃん」に囚われていれば、その位置の現象が明快にあなたの人生に現れるということ。

み:最近わたしも寝る前に瞑想をするの。それで、その時に繋がるのが自分のハイヤーセルフ(神我)みたいなものと繋がるようにしているのだけど、そうやって考えると、もっと大きな存在と繋がった方がより宇宙的に物事を捉える役割をいただく人になれるのだろうか?

い:確かにその通りだけど、その構造が知識的にわかったとしよう。その時に、自分の魂がそのレベルに達していないのに、想うだけ想って、「わたしはそういう意識に繋がりたい」という意識では、アンバランスじゃない?

み:それも、神さまからいただいたことではなくて、自分の作り上げているエゴみたいなところもある、とも思うんだよね。

い:そう。エゴ的、知識的。自分の意識のレベルということになるわけだから、それだったならば、そういうことは一切抜きにして、明らかにこの世界には秩序があるのだから、その秩序に向かって呼びかけたほうがふさわしい。変にその構造的知識を知って、そこの位置に自分をもって行きたいというのは、よく行者が自らの欲求を達成したいがために、裏づけにする守護霊とか守護神を降ろしてきて、その背景によって道を説いていくようなご利益宗教になってしまう。それは、求める人にとっては尊いものであっても、真理に向かっての道からは遠ざかってしまうことにもなる。

み:何か、それも意図的かなとも思って。だから食事の時にするお祈りでは、神さまのレベルはわからないけれど、「神さま、どうぞわたしをお使いください。神さまが使いやすいわたくしでありますように、お導きください」と語りかけている。

い:「常に私はそのようでありたいと思っているものです。どうか私を相応しい役割に使ってください」だよね。でも、使ってくださいと言っても、向こうからすれば、「始めからそういうものとして、わたしは使っておる。改めて頼まれるような話ではない」ということになるんだよ。
だから、わたしとあなたという意識が存在している限りは、まだ途上ということになる。「既にお前と私は一体であって、お前はわたしの意思によって相応しいところで使っておる。お前の認識している意識は、お前がそのレベルに保っているとも言えるが、逆に、わたしがそうしているとも言えるんだぞ。」
そのことを理解すると、それって「私が今与えているレベルより、上がっていったから、役割を上に上げようか」とか、全て神の意のままの話ということでもある。そうすると、人間の思考っていうのは、何だろう?ということになる。

み:そうなの。そこで、自分なんかいらないとしたら、今までの自分を振り返ると、木の花に来て日々、自分の心の中を観ていくことをやり始めて、自分のエゴがあったりして、気付いていくわけじゃない。なかなか自分で気付かなかったり、改善できなかったり、意識が上がらなかったりするけれど、それも含めて全部神さまが、「いつまでも意識のあがらない道代ちゃん」を作っているというわけでしょう?

い:そうすると、つまらないじゃない。我々に意思が無くて、全部神さまのマスターベーションになってしまうわけでしょう?そこでは神さまもひとりでゲームをやっているのだから、つまらないわけだ。そうすると、自分というものを分割して、「自分 対 〇〇」という相手を創って、自分の範疇を超えた遊びの部分を作る。それが、我々に与えられている自由なわけだ。それをどうするだろう?これは、実験室でビーカーなどにこうした世界を作って、そこに地球世界を培養して、さてどういう風にこれが繁殖していくかを研究して楽しんでいる。それこそ麹でも培養して、発酵具合を見ているような世界でもあるんだよね。だから我々には、神を無視して、神の存在を全く信じない、自分達だけの思考でこの世を作っているという人々すらも認められているということなんだ。それを無神論者というのだけど、本当にそうなのだろうか?あなたはこの宇宙の中の一つじゃない?ということに気付いた時に、もう神の手(この世界の仕組み)の中に無い存在なんて有り得ないということになる。この世界を広くおおらかに捉えると無神論者も神さまの手の中にあって、それは遊びの中に与えられているということになる。

み:そうするとその自由をうまく使うことによって、神さまを結構喜ばせることが出来るね。

い:その遊びがあるからこそ、我々は神を認識することが出来るのだし、人間というのは、神の領域まで到達することができる者になるんだ。神はこの現象世界(三次元世界)を創造されたわけだけど、どうしてこの世界を創ったかというと、その中の殆どの存在は、神の意のままの存在であるわけだ。しかし、人間は、そこの中で唯一自由意志を与えられたものとして創られている。中にはその元本を理解できない無神論者までいるわけだ。つまり、人間という神(命)から隔離して、神から意識が離れていたものが神に近づいていく、そのプロセスを人間に味合わせて、その喜びを神自身が味わっている。だから人間は神の名代として命を生きて、生命としての自らに気付いていくことを目的として生きているとも言える。それに対して、他の植物動物などの生命は、神(宇宙ルール)の意のまま、ルールに則って存在している。人間の存在も神の意思そのもの。最終的には、全てこの世界は神の意思そのものということ。そういう風に考えていくと、またまたつまらなくなる。だから神さまに聞いたんだよ。「この世界にあなたは遍満している。そのあなたの支配する宇宙はあなたの個性ですね。すると、あなたの隣には、あなたの個性とは違うルールの世界があるのですか?」と尋ねた。そうしたら、「それを聞いてどうするのだ?」と言われた。「お前は私のルールの中に存在するものである。その隣の世界があるとして、それを理解しようとして理解できるのか?」と言われた。「それは、理解できません。」と答えると、「では、理解できないものを聞いてどうするのだ」と言われた。「あ、不必要なことなのですね」ということになるわけだが、では、それに対して「隣があるのか、ないのか?」ということに対しては、「あるが、理解できないものである」と言われる。それをどうやって理解するかというと、この世界は全て二元で成り立っている。ということは、「この世界」を認識したら、この世界を存在されるもう一つの世界があるわけだ。それは、物理学でも常識のことである。

み:いさどんが言っている「この世界」というのは、太陽系だけではなく、もっと大きなものを指しているの?

い:そう、宇宙全体のこと。この神が掌っている世界。物理学でも極められない世界。そして、この世界が存在するということは、その対極があるからこそこの世界があるということになる。それは、想像の世界になる。この世界のスケールは、何百億光年という世界だと理解している。それは行ってみてわかっている世界ではない。そして、この宇宙世界を一つの世界と捉えたら、これを存在させる一対がある。これを陰としたら陽、陽としたら陰があるということだ。こちら側を離れて向こう側に行き、向こうからこちらを見たときに、初めてここの世界がわかる。そうすると、物理的には対極に行けるかどうか考えるわけだ。そうしたら「行けない」という結論になってしまう。光を越えて、この四十数億年の、我々の宇宙を超えた世界、その百何十億光年の世界を我々は認識しているわけだ。この我々が存在する太陽系や銀河を作っている四十数億年を超えた世界がある。それすらも理解できないのに、その無理解の更に対極があるとしたら、もうどうしようもない。お手上げだ。それで、物理学では、この探求については諦めたが、僕は諦めていない。そこで、これを認識するにはどうしたらよいかと言うと、この物理的人間を超越して、自らの思考が宇宙意識まで行ったもの、つまり神のいる側 — あってあるもの、無きて無きもの — そこの世界に合一したら理解は出来る。つまり、神さま(宇宙真理)と一緒になったら理解は出来る。しかし、そこまで一体になると面白くないじゃない。何にも無くなっちゃうんだから。その手前のところで銀河でも旅をしようかというところに今の思考が働いている。

み:でも結局は、一般のわたし達みたいに、神の世界と一体にとても成り切れない人たちこそ、楽しみがあるということでしょう?

い:そう!だから、金星のぶれの無い世界に対して、地球のぶれのある世界というのは素晴らしい世界ということになる。その時に、何で地球に完全な世界を表現しなかったのかを神様に聞くと、「完全は完全であるのか?」と言われて気付いた。ということは完全は不完全によって表現されるのであって、完全なる世界とは不完全であると言っている。完全が不完全からできているとしたならば、その完全の世界に不完全を下ろし、そこで完全を超えた完全を創った。つまり、地球という世界は、完全を超えた完全の世界だとわかった時に、何とすばらしい世界がここに創られているのかということに気付いた。

み:今の話は、地球のこと?それとも宇宙のこと?

い:宇宙とも言えるし、地球とも言える。それほどの配慮の世界を創られたとわかった時に、僕は、神様は今まで偏っていて未熟なのではないかと思っていたけれど、そうではなかった。その偉大さに敬服し大拍手を送った。
「素晴らしい!」

み:そんな風に思ういさどんって何者なんだろうって思うんだけど。

い:僕はいつも、そのように対話しながら遊んでいる。面白い世界だ。この世界は想念の世界。想念こそが世界を創っていく。この物理的な世界は、解釈によってどうにでも解釈が変わる。だから物理的な世界も面白い世界だよね。
先日の地震や津波でたくさんの人が亡くなっていった。死を迎えることは誰にでも確実に訪れることである。それは生の学びの卒業でもある。そして修行からの救済でもある。生命として存在することから生まれる苦痛からの救済でもあるのだよ。逆に言えば、津波にもまれながら助かった人もいる。大変つらい経験をして助かった人々。その人々が本当に助かったのかどうかとは、その後の生き方によるのである。人によっては苦痛の世界に逆戻りしたことになる人もいる。それはゲームのようなものでもある。死ぬも生きるもその人の心の持ち方にかかっている。そのことがわかると、自由自在に楽しみ、生きられる。だからどこの位置に心をシフトするかによって、この世界は、喜びでもあり、苦痛でもあり、どんな世界にもつなげられる。そういったところから捉えると、うつ病になってみるのも善し、喜びを感じるのも善し、もう好きなようにしなさい。自由自在の世界なのだから。そしてそこまで意識が行くと、いかに我々が自由な世界にいるかがわかる。自らを特定してしまうと、たいへん不自由な世界に生きることになる。

み:わたしの心の癖だけど、ふと思ったのは、「あぁ、いさどんくらいに思っていたら、神さまは可愛くて仕方ないだろうな」って思ったの。

い:過去に僕がまだまだ目覚めの途上のころには、苦痛を感じたときに、「私に与えられたこの問題は何ですか?これをわたしに与えて、どうされようと言うのですか?」と想い、上を観上げると、いつも神様は「何も問題は無いぞ。滞りなど、どこにも無いぞ。全て順調にいっているぞ」と言ってニコッと笑っている。「そうですね、それを理解できない私がいるのですね」という対話をいつもしていた。ウッとして上を観るたびに、滞りなどどこにもないと癪に障るくらい、いつも言われていた。その当時は、神さまとのゲームにいつも負けていた。ウッとして上を観て、その存在に気付いたときには、「あっ、このゲームを引き分けにしよう。」と思うようになった。

み:わたしが思ったのは、いさどんみたいに出来のいい人は、神さまは可愛いだろうなと思ったの。でも、わたしやみんなみたいに色々と問題を抱えている人たちは、どうかな?って思ったときに、「あぁ、それでも神さまは愛してくださっているな」とすごく思ったら、出来の悪い子ほど、神さまは喜んでくださるなと思った。

い:だって、今ここにいる道代っていう存在こそ、神の目的そのものなんだよ。僕のようになると、心が通じた人ということになるけど、「おまえは、だんだんわたしの方に意識が近づいてきて、ある意味では、わたしの目的から外れている」つまり、僕のようなものが増えてきたら、この世界を創っている意味が無いということにもなる。

み:つまらなくなってしまうよね。ということは、わたしのできの悪さも神さまを喜ばせるという意味では、大事なの?それで、開き直っちゃいけないけど。(笑)

い:そうそう。それでも神様は、苦痛ばかりの中にいて、その意味が全くわからない人も、神さまが創られた仕組みの中の出来事として認めておられる。出来の悪い人ほど可愛いっていうじゃない。

み:うちにケアで来ていて、時間が掛かりそうだなという人たちが、どんどん変わっていくよね。それは、何かある意味、神さまが嬉しいと思うような感覚を、わたし達も味合わせてもらっていると思う。

い:そう、だからそういった人達が木の花に来ることは、我々のためなんだ。我々が何かしてあげているのではなくて、それが我々の存在の生きた証なんだ。してあげていると思っているうちは、まだまだ本当を理解していない未熟なものである。

み:今回、ケアのサポーターをさせてもらって、すごくそれを思った。楽しかったし、すごくありがたかった。

い:僕なんかいつも思う。この人は何でわからないのか、僕の言うことを聞きさえすれば、たちどころに良くなるのに、と思う時がある。何でこの人は自分の矛盾に気がつかないのかな、と思ったときに、この人はこの人で役割として、それを表現しながら歩みとしている。だから、治らないのもプロセスということになる。そうすると、場合によっては、治すことばかりが良いわけではない。だからといって、治さないのも良くない。という我々は大変面白い世界にいる。これは何なんだ?物事の奥にある意志を観る、表面に見える形に囚われるなということ。

み:それも全てお任せしなさいということ?

い:それはそうとも言える。しかし、お任せしてしまうと変化がなくなってしまう。だから結論が出せないところに、我々は存在しているわけだ。山岸さんの青本を読んでいくと、そういうところが出てくる。物事を特定してはいけない。色々なものがいて、それで良いのだとする。でも、この世界に問題ごとはたくさんある。昔は貧しかったし、そうするとその貧しさは解決しなければならないが、どの落としどころが正しいというところにあってはいけない。それを特定したら道は外れる、と彼は言っている。この方はそこの意識レベルの人だから。そして彼は、そこへみんなにおいでということを言っている。行ったらわかるぞ、行かなければわからんぞ、という世界。

このことをなかなか世の中に出せなかった。今回のこの旅はひょっとしてこの時間が目的だったのかもしれない。最近、僕の中にフラストレーションが溜まっていた。出版のプロジェクトも滞っていて、自分の中にあるメッセージが、出せないでいた。これも全て神の意思。しかし僕の中にはさらに色々あるのに、何で出せないのか、とフラストレーションが溜まっていたところだった。
今回の旅は、当初陽子ちゃんが出張するつもりでいたが、結果は陽子ちゃんではなかった、道代ちゃんと行くという風に考えていたら、みかちゃんも行くと言った。みかちゃんに行きたい心があるのならそれもいいか、と思っていたが、結果として、みかちゃんは行かず、二人だけだった。道代は来るけど、向こうの録音だけのつもりで来るのだろうか。僕は車の中の話も重要だと思っていた。そうしたら用意されていた。だけど、その心構えを道代ちゃんがしているかどうかは、僕にはわからなかった。そして道代ちゃんはその大事を心得ていた。そして、そのことで質問もあると言う。そしてこの場が持たれた。それで、僕のフラストレーションも解消した。

み:良かった~♪わたしにはわからないけど、自分が役割として行くと言ったけど、果たせるのか疑問に思った。だけど、どう考えても陽子ちゃんが行けなくて、この役割は運転のことも含めて、わたしが行った方がいいと思った。

い:運転などは、神さまに任せていると全く疲れない。自分の肉体の中に神の意識が入って、そうすると一応ハンドルを握っているけど、さっきからずっとここまでの間、全く運転している意識が無い。あぁ、こんなところまできちゃった。

み:いいなぁ、わたしもそんな風に運転できるようになりたいな。わたしもしてみようかな。

い:一応、もう少し行くと御在所サービスエリアだから、そうしたら道代ちゃんに代わってもらわないとね。ヤマギシの人たちには、いさどんは運転が出来ない人という認識を持ってもらう必要があるから。それは、いさどんが何者であるかという認識を、とことんわかってもらわなければならないから。

み:この間の電話での会話の様子を聞いていると、よりどんはわかっていないんじゃないかな?

い:でもそれは、同時に僕も充分自分のことがわかっていない。それは、時間と共に、自分の言葉に出会うと共にわかってくる。そういう状態だから。

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まだまだです!は順調な証

2泊3日の滞在ですっかり病気が良くなり元気になったけいくん(詳しくは、「2泊3日の滞在でも」をご覧ください)。そのけいくんから、「僕はもう元気になったから、今度はお姉ちゃんの番だよ。お姉ちゃんが木の花に滞在してきたら?」と言われたお姉さんのゆうちゃんが、ここで1ヶ月と少しの間ケア滞在をしました。今回のブログでは、ゆうちゃんのケア滞在記と「主治医」であるいさどんからのコメントを紹介したいと思います。

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「木の花ファミリー ケア滞在記」

2011年2月の中旬から40日間、木の花ファミリーでお世話になりました。最初は弟の病気の相談で弟と母と一緒に木の花ファミリーに来たのですが、私には何かがあり、色々と行き詰まっていたのです。それで、私は木の花ファミリーにケアをお願いすることに決めました。きっかけだった弟の方は、いさどんと面談をして数日滞在しただけで、すっかり統合失調症が良くなりました。だから、自分の方も簡単に良くなるものだと甘く見てケアを受けたものの、なめていた自分がいて、本当に滞在中は苦しみました。

そんな中、ファミリーの人たちは毎日温かく優しく接してくださって、私のうつ的な状態を全身全霊で治してあげよう!という気持ちがいつも温かく伝わってきて本当にありがたかったです。しかし、その反面、私は我が強くて自分のことは棚に上げ、「人を正したい、自分はいつも正しい」という思いがありました。他人の言うことを素直に聞けないので、同じくケアで滞在している人に怒りを感じたり、おせっかいをしてみたり、ケンカをふっかけたりと、以前からの癖がここでも繰り返し出てきました。ファミリーの優しさに心を閉ざし、「早く家に帰りたい」と思ったことは何度もありました。こんなに長い時間をかけて自分の心をみつめる機会はなかったので、挫折して逃げ帰りたいと何度も思った自分でした。そんな我の強い自分も、「自分のやり方で良くしたい、治したい」という思い(この考え方は私の昔からの癖)も滞在中にとうとう底をつき、苦しくて号泣していた時に、やっと主治医であるいさどんの厳しい言葉が心に素直に入ってくるようになりました。親にも言われたことがなかった自分なだけに、直したほうがいい性格上の癖をいさどんに言われた時には辛くて受け入れがたかったです。しかし、そこを受け入れたら、病気になるほど頑固で見栄っ張りでかっこばかりつけていた自分に気がつきました。そうやって自分を正しく捉えることが出来た時に、いさどんの愛情を感じることが出来るようになりました。

その後は毎日作業が楽しく、自分が思っているより自分が小さい器で、情けないところが沢山あることを受け入れたら、ファミリーの人たちと自然の中に囲まれたここでの暮らしが本当に楽しくなりました。毎日目の前のことを集中してやっていく。無駄な考えが湧けば切り替えて、目の前の作業に集中することが健全な心なんだと教わりました。歌をうたって、笑って、みんなと食事をして、クタクタになるまで畑のお手伝いをさせてもらって、美しい富士山や木や花を眺める日々がいただいたものだと思えて、幸せな気持ちをいっぱい味あわせてもらい、いつのまにか苦しい道を抜けて、豊かな心をいただいていました。ここに来る理由となったのは家庭環境のトラウマだったのですが、木の花ファミリーで教えてもらったことは、苦しかったトラウマ時代も実は私にとって必要な経験であったこと。来るべきタイミングがやってきて、木の花のみんなに助けてもらえたこと。すべて与えられ、必要な経験だったのだと学ばせていただきました。

まだまだな私ですが、これからもいただく謙虚な気持ちで、ファミリーのみなさんと学ばせてもらいたいと思っています。今回は体験を書く機会を与えてくださって、本当にありがとうございます。ありがとうございました。

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そして、ゆうちゃんがここを出発する前日の大人会議で、いさどんはゆうちゃんに次のような言葉を送りました。

いさどん:
ゆうちゃんは最初、ケア相談で訪れた弟の付き添いでここに来ました。その時は、「ちょっと落ち着きのない人だな」とは思ったけれど、まさか彼女がここへケアで来ることになるとは思いもしませんでした。弟は短期間の滞在で奇跡のように回復し、それでお姉ちゃんにもケアを薦めてくれたようたようでした。

その後、ゆうちゃんがうつ病ケアを受けにここに来た時には、「この子は難しい子だな」と思いました。というのは、自分で自分の状態を判断していて、「私はそんなに重くない。1週間くらいで良くなる」という判断をしていたからです。それはよくあることで、そういう取り違いをしている人は逆に難しく、時間がかかるケースです。

今は持って生まれた魂のように、謙虚で人に力をもらいながら、そしてもらったことを今度は人のために生かすという人になりました。あなたは陰性だから、人からいただきながら、そのいただいたことを感謝して人に生かしていくというタイプなのです。ところが、ここに来た当初は逆のエネルギーが沢山出ていました。自分のことを自分で判断し、エネルギーもちょっと雑な感じで、ガンガン押し通すような雰囲気でいました。「これは逆転現象が起きているから、このことに気づくのにちょっと時間がかかる」と捉えていました。

しばらくはそういう状態が続いていたのですが、1週間が経って面談をした時に「どう?あなたが予定していた1週間が経ったけれど、これで良くなったと思う?」と聞きました。そこではすでに素直になってきていて、「ダメです!どんどん自分のダメな部分が観えてきました」と言いました。ケアで預かる場合、だいたいいつも最初の1週間をフリーに過ごしてもらい、それからこちらから観える景色を伝え、本人に1週間を振り返ってもらって感想を聞き、その時点で今後の見通しを立てていきます。彼女の場合は、この時点で1週間でいいと思っていた自分の間違いに気づけたので、ようやくここでケアのスタートラインに立てたのです。

その後は、少しずつ自分の実態を認めていく作業に入っていきました。自分を実態とは違うように思いたい、そういう理想を自分にダブらせているとその分だけ余分な時間がかかりますが、彼女はどんどん自分を認めていくという作業に入っていったことを覚えています。

そして、1ヶ月が経った時に僕としては、「今、卒業するのにはちょっと厳しいな」という見解を持っていました。ただし、これはこちらから「ダメだよ」と伝えるのではなく、本人に聞いてみて、本人がどれだけ自分自身を正確に捉えているかということが大事なポイントでした。そこで、「どう?自分で良い状態だと思う?」と聞いてみたら、「まだまだです」と言いました。これが順調だということです。それで、「まだまだです」という言葉を聞けた時に、「卒業はそんなに遠くないな」という見解を持ちました。

それから1週間は、ゆうちゃんがここに滞在していることが気にならなくなっていました。それは何かといったら、ここもひとつの社会ですから、社会の中にいるその人が違和感を発しないという状態です。つまり、調和の生活が出来るようになったということです。調和の原理というのは、まずは謙虚であること。そして、そこで自分が学んでいること。学ぶということは成長しているということです。そういう人は社会では違和感を発しないのです。自分が特別に良くみてもらいたいとか、自分を主張したいといったことがなくなっている状態です。謙虚で学んでいる状態というのは、社会全体を良くすることが出来ているということでもあります。彼女の存在に違和感を感じないと思ったので、急遽面談をすることになりました。それで、「自分のことをどう思う?」と聞くと、本人は「毎日楽しいです」と言いました。そこで、「そうだね、もう卒業の時が来ているね。あとはお母さんと段取りをして、帰る日にちを決めよう」ということになったのです。

ここにケアで来るひとりひとりはその人流に歩んで、その人流に卒業を迎えていきます。歩みも期間もすべて別々ですが、今回も良い物語を見せてもらいました。こういう形で送り出せるということは本当に感謝です。良い勉強になりました。本人にとっても希望のある充実した期間だっだと思うのですが、それが昨日からだんだん不安が出てきて、今日のお昼には僕のところに来て、「私、このままここを離れて大丈夫なのかな?」と不安そうに言いました。「それは当たり前だよ。最後の面談でも伝えたけれど、今の点数は70点だ。だいたい70点取れば合格点。でも、満点にはあと30点足りないよ。この30点をなぜ残して卒業なのかというと、自分の道は自分で歩み、築き上げるものだからです。仮にここで90点や100点をもらったとしても、その点数は仕上がれば仕上がるほどここで与えてもらったものになる。それは木の花依存症やいさどん依存症にもなりかねない。だから、不十分であっても合格ラインがもらえたのだから、そこから社会に出て、自分で築いていく。そうすると、それが自分の人生になるんだよ。あなたらしい人生を歩んでいくことが大切で、自覚のもとに自分の人生を積み重ねていく。だからこそここでの経験をもとにして次もやっていける自信も身につくのだし、それが自分の気づきだからこそ人の役にも立つ人になれる。それがここのケアの原則です。そういうことが本人にとっても大事だからね」と伝えました。

これからの歩みも順風満帆に行かないこともあるでしょう。今は、自分が今までどのように歩んできたのか、なぜ今まで迷いの道にいたのかということはマスターしています。そうしたら、これからは色々な問題事に出会ったとしても、それをチャンスとして活かしていくことが出来るようになっています。最近ゆうちゃんが「ありがたいです」と言うように、問題事によって自分の中にある種を表現させてもらい、自分の行動を振り返って自らを見直すチャンスなのだと気づいたら、問題事は人生を生きていくための糧になるわけです。

そして、私たちは世の中で行き詰まった人たちのために、ここでこのような暮らしをしています。そういう人たちのおかげで私たちも育てられているということでもあるのです。やはりこういう精神性に基づいた仲間を増やしていきたいと思っています。私たちの生き方がそういったきっかけとなることを望んでいるのです。人生はいつどこでどうなるのかはわかりません。これからゆうちゃんは僕たちとちょっと距離を離れて生きていくことになりますが、私たちと同じ志を持って生きていってもらいたいと思います。離れていても、同じ志の仲間として生きていけるということです。

ゆうちゃん、卒業おめでとう!そしてありがとう!

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そして、ゆうちゃんが卒業してから数日後、ゆうちゃんのお母さんからファミリーに電話がかかってきました。

「本当にどうもありがとうございます!ゆうがこんなに変わって、変わって。人はこんなに変われるものなんですね!みなさんのおかげです。本当にどうもありがとうございました。いさどんさんにもよろしくお伝えください。」

けいくんが元気になり、ゆうちゃんも元気になり、お母さんもこれからは安心してご自身の人生を歩まれていくことでしょう。自分の健康はまわりの人も幸せにしていきます。「まだまだです!」は順調な証。けいくん、ゆうちゃん、これからも共に謙虚に学びながら歩んでいきましょうね。

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